34、5 ③ 杉田初瀬→五十嵐大和、佐久間伊織
「……だから何でここにいることを知ってるんだよ」
今日のコマが終わった所だった。二十九歳春の夜、多少ふっくらとしたかのように見える幼馴染は、けれども変わらず手を挙げた。その隣には同じ様に手を挙げている伊織がいる。「受付で聞いた」
いい加減あの受付担当、クビにした方がいいと思う。このご時世とんでもないトラブルを起こしかねない。仕方なく「何の用だ」と聞くと、二人揃って「ハチに会いに来た」と答える。ヒマか。
「何で? 会いたかったから来たのに、ダメなの?」
伊織が聞く。
「何で? 冷たいこと言うなよ」
五十嵐が続ける。
伊織だけだったら、きっと堂々と「会いに来た」なんて言えなかった。五十嵐だけだったら、俺自身まともに取り合わなかった。二人揃って訴えるというのは、多数決の問題以上に、俺を複雑な力でがんじがらめにした。そんな中、先に声をかけたのは伊織だった。
「ごめんね、はっちゃん。大和は悪くないの。二人の仲を引き裂いたのは私なの」
そして相変わらず誤解を生む表現をすると「大和ははっちゃんと組みたかったんだよ」と告白した。
「……は?」
突然のことに動きを止める。聞いてもらえると察した伊織は、ここぞとばかりにその手を胸元に重ねて、祈るように続けた。その様子は舞台に上がって芝居でもしているかのよう。やけに大げさな抑揚をつけた声が駐車場に響く。
「大和は、はっちゃんとダブルスがしたかった。でも私が横取りしちゃったから、二人を戦わせたりなんかしたから、大和は本当の気持ちを押し殺すしかなかった。なんて罪なことを! 呪うなら私を呪って!」
そして悲劇のヒロインぶって見せる伊織はどこか楽しそうだ。俺はそんな茶番に付き合うつもりはない。「お疲れ」と言うとそのまま歩き出す。しかしそれは許されなかった。
「お前! 俺の気持ち聞いといて、よくそんなこと言えるな! そこは『そうだったのか……気付けなくてごめん』ってなる所だ」
これだから慢性コミニケーション欠乏症は、と続ける。ヒマか。
ため息一つ「何が望みだ」と聞くと、二人して目を輝かせた。
「はっちゃんはもうダブルスやらないの?」
五十嵐が聞きたいのも同じことのようだ。俺は頭をかくと、目を落とした。
「……ああ」
「それって私のせい? 奥さんが嫌な気持ちになるからやめるんでしょ?」
「違う」
「もしそうなら大和相手なら大丈夫なんじゃないの?」
「そうじゃない」
上手いこと言葉が出てこない。伊織自身、テニスと結婚すると言っておきながら、誓わせておきながら、その一可能性を奪うことが我慢ならないのだろう。その姿は純粋に傷ついているように見えた。
怪我をして無理に笑っているのを見るのも、そんな顔されるのも、これで最後にしたい。深呼吸一つ、頭をかく。
「……あー、何かつい最近までいた時間帯に、高校生の双子がいて、姉ちゃんが前、妹が後ろやってんだが、そいつら身体小さいクセに、器用にテニスするんだ。ただ、妹の方がいつも気を遣ってて、失敗すると全部自分のせいだって言ってた」
突然の、そこまでなじみのない人間の話であるにも関わらず、五十嵐も伊織もきちんと耳を傾ける。その表情は瓜二つ。
「そんな妹が最近のびのび打つようになって、姉ちゃんも姉ちゃんで「無難に」じゃなくて結構積極的に駆け引きするようになった。『器用に』って言うように、それまでこなしてる感が強かったんだが、自ら楽しそうにテニスをするようになった。それ見てたら、何かこっちまでもっと楽しみたいと思うようになった」
結果のために、失敗しないように、傷つけないように、守れるように。
テニスが好きなはずなのに、いつしか怯えるようにして打っていた。それは決して伊織のせいではない。けれども伊織がいることで自分軸が歪むのも確かだった。
「ハチのせいじゃないよ」
伊織は小さな声でそう言う。分かっていた。伊織ならそう言うと。でも、だからこそ、
「……長いこと待たせたな。今誓う」
それは十年越しにたどり着いた場所。よく知るメンツに囲まれて踏み出す新たな一歩。
「病める時も健やかなる時も、この場所と共に生き、この白帯の内側で生を全うすることを」可能な限り。証人は五十嵐であり、伊織。俺は。
「この競技が好きだ。だからきちんと向き合いたい。誰かの影響を受けることなく、誰かの
せいにすることなく、自分がどこまでできるのか知りたい」
だからもうペアは組まない、そう告げる。伊織が目に涙を一杯ためて、こっちを見ていた。
五十嵐は静かに、でもやさしい眼差しを向けている。
「……これで離れる事はねぇな」
俺の方を向いたまま口にした五十嵐の言葉に、伊織が二度三度うなずく。
「良かった」と言う。「ハチがテニスを捨てなくてよかった」と。
今度こそ車に向かう。二人ともついて来る。
「……妹、ねぇ」
思わずそうつぶやくと、五十嵐から「いんや、血はつながってねぇよ? 言ってなかったっけ?」とふざけた答えが返ってきた。
振り返る。同じような笑顔。
「下らねぇ。俺からしたらお前らも双子みたいなもんだ」
言われた二人は顔を見合わせて「下らねぇ、だって!」と言う。
「お兄ちゃん!」
ヤメロ。誰がお兄ちゃんだ。
エンジンをかける。
「はっちゃん」
窓を開ける。頭上から照らす蛍光灯。その目がまたたいた。
「今、幸せ?」
勝手に頬が緩んだ。浮かんだのは自宅の明かり。
「ああ」
返るは満面の笑み。伊織はその表情を保ったまま一歩下がると「ならヨシ!」と言った。どこの教員だ。
その後ろに目をやる。
「またな」
初瀬、と聞こえた。今度は返す。
「ああ。またな、大和」
バックミラーに映る、頭上で手を振る姿。それは幼い頃繰り返し見た光景。あの時と変わらず、あの時と同じようにそっくりで、声に出して笑ってしまった。
早くこの気持ちを共有できる人の元へ帰ろうと思った。