30、土戸秋良 最終日①
ここでは二ヶ月を一つのサイクルとして、それを六つ集めることで年間スケジュールとしている。振替ではなく「辞めたい」「クラス自体を変えたい」というのは、だから二ヶ月毎の区切りでのみ可能となり、逆に何も言わなければオートで更新され続けていく。
最終日。それは年間に限った話ではなく、このメンバーで同じコートに集う日はもう二度とないという意味でもあった。
ショートラリーから始まってボレーボレー。球出し練習を終えて、ストレートのストロークに移る。
向かいに入ったのは寺岡さん。打った後、きちんと基本姿勢に戻る。機械のように正確なストローク。それを生み出すための圧倒的な基礎の精度。
〈戦いたいんじゃない。続けることに重きを置いて欲しい〉
決して緩やかではない。決して手を抜かない。この人の打球はいつだって真面目一辺倒。そこから生まれるのは、面白みに欠ける、異常なまでに単調なやり取り。
スライスを加える。低くなる打点、前におびき出す。バウンドを介さないボールへの対応。ボディへのボールがネットにかかった。
交代で入ったのは小出さん。跳ねたボールに合わせて跳ぶ。バウンドが頂点に達する前に叩かれる。
〈土曜に張り替えたばっかなんだけどなぁ。何だってこう軟弱なんだよ〉
ルキシロンをバカみたいな速さで切る、ゴリゴリのトップスピン。その、テンションに合わせて弾む打球を、押さえ込むようにして返す。緩やかに、できるだけ弾かないように、球速を削って。
削って削って、相手が乗りたいリズムに乗れなくてイライラし始めたところで足元に打ち込む、テンポを作りたがっていた張本人は、ムキになって返そうとする。結果、アウト。
クロスラリーに変わる。正クロス。
〈何でこのおっさん〉
赤妻妹から打ち出されるボールは弾道が高い。打点がぴたりと合った時に繰り出されるフルスイングの合間、ほっと一息つくような間は、けれども次の戦いに入るための準備でもある。ミスの少ないラリーにどう対応するか。女子シングルス西部地区大会優勝者にも、一つだけ明確な弱点があった。
「……っ!」
ベースラインギリギリから伸び上がるボールを返せない。これは身長のせいでもあるが、バウンドを介さないボールとして対応する考えにまで至らない。逆に今まで積み上げて来たものを応用するには、グリップを変えるしかなかった。
アドサイド、逆クロス。
〈アキラ、元気出せ〉
赤妻姉は早々ボレーストロークの形に切り替えると、足元に打ち込んで来た。下がりきれないとネットにかかってしまう。だからわざとロブにしては短めのボールを打ち上げた。定型通り動く姉にとって、上へのゆるいボールはスマッシュ。別にハイボレーで構わない所を「一番」は妥協できない。下がりきれなかろうと、チャンスボールはフルスロットルで打ち込む以外の選択肢を持たない。前後運動に加えて、伸び上がって使う腹筋背筋。後ろ重心にならざるを得ない距離でのボールコントロールは、難易度が高い上、想像以上の体力を消費する。三本目のスマッシュがネットにかかった。
サーブからのクロスラリー。
ルーティンの段階からざわざわする。にじむ汗で滑るグリップ。いくら拭いた所で、これが正しい握りなのかすら分からなくなってくる。
コートに入ったのは杉田さん。そのトスが上がると同時に踏むスプリットステップ。ワイド一杯。信じられない角度で伸び行く。分かっていて取れない。分かっていて取れないのだけれど。
〈もっと打てるようになってくれ〉
もう負けない。あなたを一人にはしない。非力であろうとボクに望むなら、ボクは誰のためでもなく自分のために、あくまでそのついでにあなたを経由する。それに相応しいプレイヤーになる。
逆サイド、二本目のサーブはセンターギリギリ。打ち返したボールはわずかにアウトした。
そうしてそれは今日のコマが始まって三十分もした頃、例の遅刻魔が現れると、小出さんがラケットをしまい始めた。
「ガットが切れそうだから」
意味が分からない。いよいよ切れそうなガットを切って盛大に喚いていたはずの男が、切れてもいないのにやめる理由はない。たった今打ち終えた杉田さんもラケットを片付け始める。
「明日仕事だから」
意味が分からない。だったら今までどうしてたという話だ。その向こう、赤妻姉妹までいそいそとラケットを収納している。
「良い子は寝る時間だからー」
「良い子だからー」
意味が分からない。前から思ってたけど、子供とは言え高校生にも関わらず、何小学生じみた双子ユニット打ち出してるんだよ。
「アキラキモーい」
「アキラキモーい」
ちなみに今帰ったとしても、ボクはこの子達を良い子だとは認めない。断じて。
「じゃあな」
悪ガキどもに歯軋りしている間に、寺岡さんがポン、と肩を叩いてコートを出て行った。既に杉田さんと小出さんはいなくなっていたため、赤妻姉妹が交互に跳ねるようにしてコートを出ると、残る受講生はボクと鈴汝さんだけになった。隣から聞こえたのは大きなため息。
「……これじゃ練習にならんな。お前ら勝手にやっとけ」
俺も帰る。そう言う、コーチもまたコートを出て行った。無責任に違いないが、帰ると言った所で次のコマを請け負っている以上。本当に帰れはしない。
「疲れるからこの時間に来たのに」と、にわかに信じられないことを口にする鈴汝さんの隣、「どうシて……」と声に出してしまう。
広過ぎるコート。
最後ぐらい、最後まで打ちたかった。この時間がいつまでも続くんじゃないかと思えるような、そんな中でも、刻みつけたい思いがあった。ギリギリまで、できることなら本当にギリギリまでこのチームの一員でいたかった。
トッ。
くぐもった音はボールが地面にバウンドした時のもの。鈴汝さんはポケットに目一杯ボールを詰めると、コートに入った。
「何ボサッとしてるのよ。入って」
そう言った彼女の向こう、金網の向こうに見覚えのある影を見つける。
一週間前にも見た。それは五十嵐さんだった。