28、鈴汝雅 欠席
前回連絡するのを忘れてしまったのですが、今回はnoteにて杉田のスピンオフ「ゆでたま恋」掲載です。https://note.com/hayami_desu/n/nb5540a90d080
これは次回2話載せるつもりだった内1話ですので、水曜は1話のみの更新となります。ご了承下さい。
いつもありがとう。
偶然居合わせた空間。それはそれぞれ異なる方向から伸びてきた線が交わる一点のように、いずれは離れゆく。だから時に人は今ある関係を繋ぎ止めるため、さまざまな手段をとる。今後どのクラスに所属するのか尋ねたり、連絡先を交換したり、人によってはさらに個人的な関係を深めようとすることもあるかもしれない。いずれにしても。
渇望したラリー、集った仲間、そうして形成された稀有な空間。その価値を分かっているからこそ、かける労力がある。大切だから、せめて大切に思っていることが伝わるように、己が手段で慈しむ。
それにしても厄介なのは異性間のやり取り。同性には気軽に聞けることも躊躇してしまう。言葉一つで自分の意図と違ったニュアンスでとられる可能性を考えると、軽々しく口を聞けない。ただ、聞くこともないと思っていた。
彼女から伸びる線、自分から伸びる線が交わるのも同じ一点に違いないのに、どうしてだろう。その線が重なったまま同じ方向に向かう未来を無意識に描いてしまっていた。それはペアを解消することになった所で、ここにいることには変わりないと思っていたため。漠然とした思いは、何の保証もない足元の上、堂々あぐらをかいていた。
三月二週目の水曜日。今期が終わりに近づく。残り二回。
不意に以前、練習前の雑談で、尊敬するテニスプレイヤーについて話題が上がった時のことを思い出す。ナダル、ジョコビッチ。なんとなくその人のプレイスタイルに近しい名前が上がる中、杉田さんの口から上がったのは日本人だった。
「クニエダシンゴ」
一瞬誰のことか分からず隣を見ると、小出さんが「分かる」と声に出した。
「あれは確かにすごいな。もうサーブだけで試合終わるもんな」
「いや、サーブもだが、ボールも自身も動いている状態で、あれだけ正確にボールコントロールできるものなのかと思って」
言っている意味が分からない。止まらず打つ、という訳ではないのだろうか。実際走りながら打ち込む場面はよくある。寺岡さんが補足する。
「国枝選手は車椅子のテニスプレイヤーだ。パラリンピックで二度優勝していて、二○○六年に世界ランキング一位にもなってる。日本のレジェンドだよ」
喉が鳴ってしまった。日本で知っているプレイヤーといえば、最近順当に世界ランキングを更新し続けている錦織選手ぐらいだった。まさかそんなすごい選手が他にいたとは。
「別に気負う必要はないぜ? 『なぜ日本のテニス界から世界的な選手が出ないのか』って聞いた日本人記者が、ロジャーフェデラーから『日本には国枝がいるじゃないか』って返されてる。自国の関係者でさえ知らない人も多い。こんな恥ずかしいことないけどな」
小出さんにそうしてフォローされるが、そのやさしさが、戸惑いに無防備になった古傷に染みた。暗に一線を引かれたように感じたからだ。
「聞くより一度見てみるといい。驚くから」
移動でイチイチ手使わないんだぜ? と腰をひねって見せる。名前を上げたはずの人は、言いっぱなしで既に解放されたコートに入っていた。
「最近『お父さんを尊敬してる』で有名になったヒトも、確か車椅子じゃなかったー?」
「宇宙飛行士のヒトー」
この子達も国枝選手のことは知らなかったのだろう。そもそも他人のテニスは見ないという彼女達は、尊敬するテニスプレイヤーを聞かれても「コーチ?」と疑問系で返ってくるだけで(コ「おい」)その先の広がりを見せなかった。
小出さんが応答する。
「『僕は父を尊敬している』な。あれは本人じゃなくて父親だな。でもすげぇよな。親子二代で宇宙飛行士とか、どんだけエリートなんだか」
そうしてようやくコートに入る。
その日、鈴汝さんが現れたのは、それから三十分もした頃だった。
〈鈴汝さんは春から東京だろう?〉
今日のコマが始まって十五分。打球が乱れる。まだ全然走っていないのに、全身が重だるい。調子を上げるための心拍数をコントロールできない。こういう時立ち返るべきは、ボールのインパクトの瞬間を意識的に見ること。右足重心。そうして単純に集中できていないのを自覚すること。
パァン、トッ、パァン。
あれ程渇望したラリー、しかも河岸が見えている。近未来、幾重にも交差した点は完全に過去のものになる。それが分かっていて尚、集中できない。渇望したラリー。この時間になっても現れない以上、杉田さんも欠席だろう。それでも贅沢な選択肢の中、基準にしていたのは他でもない、彼女だった。
〈なるべく私と打って〉
だったら居ろよ。本気でそう思う。
勝手すぎるだろう。打ちたいなら早く来いよ。何だよ東京って。ボクだって知ってる。
東京はここから二時間先にある、新幹線を使ったって一コマ丸々終わってしまう、それは終わらないラリーが始まりもしない場所。
〈何で言わなかったの?〉
それはこっちのセリフだ。純粋な疑問以上に抗議の色の濃い思い。ペアであるはずの自分が知らされていなかったし、そんなの、聞きようもなかった。理由は「気分を害さないように」でも「普段使い如何」でもない。じゃあ仮に「わざわざ言う必要性を感じなかった」のだとしたら、もはやボク自身に問題があった。彼女にとってのボクと、ボクにとっての彼女の乖離。
〈あたしは〉
よぎるのは、前を向いたまま口にした、心から傷ついたように見えた表情。
〈あなたが同じ気持ちでいると思ってた〉
結局その日欠席したのは杉田さんと鈴汝さんだった。たった二人いないだけでクラスの雰囲気はガラリと変わった。今までも誰かが欠席することはあったけれど、不在をこんなに意識することはなかった。終わりが近づいていることも影響しているに違いない。
帰り、荷物をまとめて身体を起こすと、肩にポン、と手を置かれた。振り返ると赤妻姉だった。
「アキラ、元気出せ」
続けて赤妻妹も肩ポンする。
「元気出せ、アキラ」
その後サッとその手をタオルで拭うのを、ボクは見逃さなかった。その目はまるで「彼女にフラれて落ち込んでいるおっさん」を励ますように、憐れみと同情と、ほんの少しの享楽が混じっていた。非常に「やな感じ」ではあるが、その気持ちも分からなくもなかった。
〈あなたが同じ気持ちでいると思ってた〉
ボクも思ってた。最も幸せな関係性というのは、互いに好いていることに限らず、限りなく近しい温度で思い合うことだと思う。だから同じぐらい「嫌い」な者同士の関係も、当人にとってストレスが少なく、ある種幸せな関係性と言える。いずれにしても
〈分かる〉
ボクも同じ気持ちでいると思ってた。色や形まで同じでなくても、同じくらい大切で、同じくらい自分の中を占めている存在であると。
けれども東京に行くということは、しれっといなくなるつもりでいたのなら、こんな温度差はなかった。これが俗にいう片想い、失恋であり、ボクは今喪失感の真っ只中にいるのだ。だからほんの少しの享楽が垣間見えようと、励まそうという働きかけを起こした赤妻姉妹には感謝しなければならない。
帰り道、前を歩いていた小出さんが振り返った。
「どうしたんだろうな、鈴汝サン」
この人もまた、ボクを気にしてくれてはいたが、ボクより関係が長い分、彼女に対する個人的な心配の方が強いように見えた。この人にとっても一緒に打てる時間は限られているのだ。「サァ」と応える。
ライトに照らされたコートだけが青白く光っていた。