26、春季トーナメント混合ダブルスの部決勝⑧ 全てはこの瞬間のため
春季と名のつく公式戦とはいえ、それは旧暦の春を指し示すものであって、どうしても肌感覚とは合わない。静かに、けれども確実に暮れていく日。やむを得ないといった感じで、ようやく備え付けのライトが点灯した。気温は十度を下回る。
冷たい空気の中、肩を寄せ合うようにして並ぶ観客は、いつしか固唾を飲んで試合の行く末を見守っていた。
「アドバンテージサーバー」
既にカウントは七を越えてデュースを繰り返すこと五回。四人分の白い息が、緑をバックに等しく浮かんでは消える。
熱を放出する身体で唯一冷たい頭。どっぷり浸かっている時程、必要な音だけがよく聞こえた。
「腹くくんなさいよ」
言われなくても。
ぐっと力を込める。自分達の波は確実に近づいていた。もう目の前まで来ていると言っても過言ではない。けれど、ネットの向こう、ボールを持っているのは他の誰でもない、最も恐れた男だった。
それまではボクのサーブの段階で自分達にアドバンテージを持って来ていた。だから続けて二本取られても、まだ次をとれば持ち直せた。けれど今は違う。既にアドバンテージは向こうにあった。それは「七点目終わった段階で五とられてたら」という、まさにその形だった。
これをとられたら終わる。それは命を脅かされるような、首の後ろに刃を当てられるかのようなヒヤリとした感覚。普段なら全身が硬直していてもおかしくない緊張感の中、熱い思いが駆け巡る。
〈いいから。最後だから思いっきり振って頂戴〉
深呼吸一つ、男を見据える。
終わってたまるか。
ボク自身がどうしたいか。
やっと見えた主体性。腹の底から望んだこと。
トスが上がる。低く、体勢を低く。重心がブレないように。一歩が届くように。
パァン!
ファーストがネットにかかる。その場で足踏みをする。構え直す。
パァン!
「デュース」
ふ、と喉が通る。身体が呼吸することを思い出す。
会場全体が息を呑む。それは、この試合初めてのダブルフォルトだった。
彼女と目が合う。足元に感じるは水の気配。
ひた、ひた。
デュースサイド、彼女がセカンドを叩き返す。佐久間さんのギリギリ届かないコース。抜けたボールは杉田さんのラケットを弾いた。
背筋を駆け上がるは、震えんばかりの歓喜。
待ってた。
ひた、ひたと足元に感じる気配は波。寄せては返し、寄せては返す、その、特大級の。
「ハチ!」
佐久間さんが声を上げる。杉田さんは手放したラケットをそのままに、呆然と自身の手のひらを見つめている。その手が震えていることが分かった。
スタミナ切れ。
それは「本人の意思とは裏腹に一撃必殺の色の強い打球」を持つ杉田さんだから起こり得たこと。佐久間さんを危険にさらさないため、サーブだけで完結できる力を身につけたがために、知らぬ内に失っていたもの。
早い試合展開。一試合一試合短時間で済ませて来たがために、タイブレークを走り切れるだけの体力を持たない。それは完全シードという、極限まで体力を温存した上で尚、起こり得た事象だった。
〈ただラリーがしたかった〉
皮肉なことに、本人はそれを望んでいても、長続きはしなかった。
佐久間さんは審判の方を向くが、杉田さんが「インパクトが悪かっただけだ」と制する。他ならぬ、それはまだ戦えるという意思表示だった。
ひた、ひた、ひた、ひた。
水面が上がる。波が大きくなる。しかし押し寄せるそれを目前にしても、全く怯む様子を見せない。その目には一層強い思いが宿る。
技術、経験、かけた時間、代償。この時間を得るために差し出してきた様々なもの。何を引き合いに出した所で、結局は思いの強さが勝敗を決める。そこに現れるのは、その人自身の生き様。
杉田初瀬という男。
研ぎ澄まされた、洗練された輪郭。そこに宿る思い。限りなく静かな個体に秘められた熱は、ネットを隔てようと十二分に伝わる。
手負い、ではない。あの男は喉元をかっ切りに来る。そんな気配に波の音が聞こえなくなる。
ポジションにつく。彼女もまた腹をくくったようだった。
最後に首のつながっていた方の勝利。
ノーガードの殴り合いが始まった。
実際にやってみなければ分からないことは多々ある。後衛は、ラリーの合間、たった一本打ち込むことのプレッシャーを知らないし、前衛は、安定したラリーを安定しない打球から生み出すための集中力を知らない。綺麗なスマッシュを見れば「あの人は前衛が得意だから」長いラリーを見れば「あの人はストロークが得意だから」
そうして線引きしてしまうことは世界を限ることと同義。大切なのは理解することではなく、理解しようとすること。ただそれだけで見える世界があり、できる気遣いがある。
以前、練習中に聞いたことを思い出す。
〈あれを当たり前だと思わない方がいい〉
メニューの一環で、ボレーをしなければいけない時、分かりやすくゆっくり水分補給をしていた寺岡さんは、時間稼ぎのためとは思いたくないが、自分の番が終わって同じく水分補給のためにベンチに現れたボクに声をかけた。
顔を上げる。その目は鈴汝さんを見ていた。
「ただのボレーは誰でもできる。でもあの高さのボールに対応できる女性はそうはいない」
バックハイ。最も難易度の高いボールを難なくインパクトする。
「大抵ミックスは雁行陣。それは平行陣だとどうしても小柄な女性の頭上を味方がカバーしなければいけないから。だから上に強い女性は本当に貴重だと思う」
まじまじと見る。その人が当たり前にやっていること。そのベースの高さ。
性差による理解は及ばなくても、前衛としての理解は努力によってし得る。
その後、実際前衛をやるようになって、彼女の方が上手いのに何故自分にやらせるのか尋ねた所、返って来たのは「ストロークがしたかったから」
似たようなことを聞いたことがある。その言い分は「ラリーがしたい」と同義だった。
合間に挟んだ平行陣、は、杉田さんの体力を削るため。そのために点数を失ってでも繋げることに重点を置いた。平行陣。杉田さんとダブルスを組んだ時、初めて実践したもの。それは、皮肉にも敵として相対した時に花開いた。
〈全てはこの瞬間のため〉
それは必ずしもあの人だけにメリットがあった訳じゃない。今は自分にとってもこの瞬間のためだったと思える。
息もつかぬ激しい応酬の中、頭をかすめるは場違いにやわらかく、切ない思い。
このラリーは終わらない。終わらないでくれ。
けれどそんな願いは受け入れられるはずがない。とうに体力の尽きているであろう男の打球が、容赦なく彼女を襲った。
その渾身の一撃に、背後でラケットの落ちる音がした。
それでもボクの頭上を超えたボールは、杉田さんの眼前。
下がって、構える。
ラケットを取り落とした彼女は、次の打球には間に合わない。何としてでも自分が食い止めなければならなかった。
来い。
その時だった。彼女による当たり損ないのボールが変えた弾道。それは杉田さんが想定していた以上に大きかったようで、
インパクトしたボールが浮いた。
不規則な回転は杉田さんが打ち返すことで慣らされ、完全なチャンスボールになる。
次の瞬間、ボール越し、視界に映り込んだのは、前衛にいる佐久間さんと二つの声。
〈初瀬は伊織を狙われる度、一歩前に出てしまうクセがある〉
それは「相手の弱点を見つけたら、そこを叩くのが勝負のキホン」
〈いずれにせよアイツはテニスが好きで、それを証明するために勝てるパートナーを求めてる〉
そうして自分には勝たなければいけない理由がある。
きっと杉田さんは次の瞬間には構え直し、一撃で仕留めに来るだろう。自分の身体のことを分かっている分、早々決着をつけに来る。その研ぎ澄まされた刃の恐ろしさたるや。
情を挟んでいる場合じゃない。やらなければこっちがやられる。けれども
〈ただラリーがしたかった〉
もっと打てるようになります、と言った時、少しだけ緩んだ頬。
〈アイツ程のサーブ嫌いはいない〉
自分の中にある恐怖と戦いながらコートに立つ男、その覚悟。
尊敬が止まない。
全ては目的のため。
二つの声が重なる。
〈あなたはどうなりたいの?〉
〈お前はどういうテニスがしたい?〉
佐久間さんが腰を落とす。
振り出したラケット。
「あなたの武器」と言われた真っ直ぐなベース。だからボールはボクの意思に真っ直ぐ従う。




