0、5② 鈴汝雅→水島聖
「……実はお伝えしなければいけないことがあります。仕事の一環で海外研修があるのですが、その推薦枠に入りました。期間は一年。会社主導ですので、この間、緊急時を除き、個人の都合による行き来はできません」
数年前、某ホテルに就職した聖は、フロント、コンシェルジュを担当して、この春入社四年目に差し掛かる頃だった。元々持つシステマティックな考え方が接客業に馴染むまで、時間こそ要したが、一旦切り替えられれば飲み込みは早く、今回の研修も管理職候補の「ホスピタリティーの精神に基づく接客、その引き出しを増やすため」の行事だという。
「……。……行くの?」
突然の申告に、今度こそ声を絞り出す。大きな前提。その大きな目は深淵。
「……はい。受けようと思っています」
故に黒。相談する前から決まっていた意思。それはお互い様で、だから雅自身、この男を責める資格は無かった。大きな前提。突然崩れる足元に軽いめまいを覚える。
深い愛情を秘めた個体。その目をいつからか深淵に例えるように、そう見えるようになっていたのだろうか。しかしそうしたのもまた、彼女自身。その後「公共においても、思いやり慈しむホスピタリティーの精神」の学びを深めようとする男が続けて口にしたのは、極めてシステマティックな未来の展望。
「この際良い機会だと思いませんか? 今後、お互いどんな人生を歩んでいきたいか考えるにはうってつけだと。あなたにはあなたの、僕には僕の考えがあり、こだわりがあり、ゆずれないものがある。その際、最良のパートナーが必ずしも僕であるとは限らない」
全てを赦し、受け入れてきた、叩いても叩いても壊れることのない頑丈な器。
〈本当に達者でしたら相手は選ばないと思いますし〉
ものの数分前、ぐうの音も出なかった正しさが、女性の首をぐいと締め上げる。
「最良のパートナーが必ずしも僕であるとは限らない」というのは、同時に「最良のパートナーが必ずしもあたしであるとは限らない」という事でもあった。
変わる距離感。
「それって……別れようってこと?」
自分のものではなくなる可能性を秘めた男が前髪をかき上げる。漆黒。一度も遊ぶことなく、まっすぐ社会に馴染んだその色は、鈍い光を素直に反射する。そのよく知る手触りが、触れられなくなるかもしれないと思った途端、無性に恋しくなる。
「……ねぇ、何か言ってよ」
否定も肯定もしない。その行動からおのずと導き出される答えにも、待ったややり直しをかけたくて沈黙を破る。
「ねぇ」
破る。その脆弱な訴えは無力。いつだってそうだ。中身のないものは、あるものに左右される。環境に左右される。結果の良し悪しを誰かのせいにする。だから
聖は何も悪くない。
「距離を置いて一度お互い自分を見つめ直しましょう、と言っているんです」
歪んだものなど、何一つない。自分の目的に忠実で、環境に文句を言う訳でもなく、日々を淡々と営めるこの男なら、たとえ家庭を持ったとしても、何の問題もなく、真っ当幸せな生き方、生かし方ができるのだろう。
無意識に手をやっていた下腹。さっきから「最良のパートナー」と言う言葉が、頭の中をぐるぐる回り続けている。
「何もマイナスに舵を切る訳ではありません。これは今以上の豊かさを追求するための一端です」
いまいじょうのゆたかさ。
生活できるだけの稼ぎがあり、長時間拘束が横行するホテル業で、ある程度時間に融通の利くようになった今は、自分にとっては充分豊かだと思うのだけれど、この男にとってそうではないらしい。加えて、自分の存在自体も、この男にとって一端に過ぎないという宣言に、背筋が凍るようだった。
慣れた手つきで手に取るエアコンのリモコン。ピ、と言う機械音。この男は私の何気ない仕草一つで、適切な行動を起こせる。けれど、そこに「自らの手で」という、当然あるはずの選択肢を選ばなかったことに、静かに、けれど確実に傷つく。
大人になる程に、傷ついても傷ついていないフリをするのが上手くなる。うまく立ち回れるよう、個人の感情より優先すべきものを優先するために、当然と言えば当然の適応。けれど、だからこそ心を許した相手にだけは知っていて欲しかった。喜怒哀楽、人としての感情を、鮮度の高い思いを。血が出て痛い思いをした事を認めて、ただ「痛かったね」「辛かったね」と言って欲しかった。
「年上なのに、まるで赤子のようだ」と、いつだってあやすように頭を撫でていたその人が、同じ目で、同じ手で、女性自身の望みとは異なる選択肢を選び取る事象。
横並び。ふと視線をずらした時、並立した異なる事象。
「……なので、そうですね……先程言った事は忘れて下さい」
顔を上げる。
「先程」に当たるものを探すため、記憶をたどる。話の流れからしてありえないとしても、今の今まで傷ついてきた数々の言葉のどれかがそれに該当するのではないかと、必死で目を凝らす。そうして彼女自身がその答えにたどり着くより先に男は言った。
「ダブルスのパートナー、自由に決めたらいい。きっとその先にあなたの望むものがあるのでしょう」
それは、つないでいた手を離すのと同じ仕草。息が止まる。めまいは、もうしない。ただ静かな空間が変わらずあるだけ。男と女が居るだけ。二つの異なる個体が居合わせただけ。
「聖」
その名を呼ぶ。その、いつだって同じような声量、声色で、同じように戻って来ていたはずの音が、戻らない。途切れる。それは糸が切れるのと同じ。重力に従って垂れれば、意思がない限り再びつながる事はない。男は時計を見ると言った。
「突然すいませんでした。あくまでこれは僕の考えですので、もし別に考えがおありでしたらおっしゃって下さい。今日の所は一旦終わりにしましょう。明日があるのでもう休みます」
土曜。翌日休みの女性に合わせて、今このタイミングで話を切り出した。そんな所にまで現れる気遣い。今までの自分だったら気にも留めなかったことをこんな風に敏感に察するのは「自分にとっての当たり前が当たり前でない可能性に気づいた」ため。失って初めてその良さに気づくのは、何も死別を介さなくても往々にしてあり得る。事象をちょうど真ん中に置かなくても正しいこの男は「中身のあるもの」
女性はうなずくより他なかった。