23、春季トーナメント混合ダブルスの部決勝⑤ 誰が為のテニス
ゲームカウントは基本的にサーブ側から順にコールします。
「5−3」の次に「4−5」になるのはサーブ権が移ったことを意味します。
個人間では自分達のとったゲームから順に言います。
極度の緊張は、自分が思っている以上にストレスがかかっていたらしい。
気づけばずいぶん遠い所まで来たように思う。一年前の自分とは、入れ物こそ同じでも、必ずしも同じ生き物であると定義できない。大きく変わったのは、引っこんだお腹と、脳みそを占めるものの割合だった。
極度の緊張状態が続いていたことは本当だし、それが緩む瞬間が来るのは、生体にとって当然の生理反応だろう。けれど「ずいぶん遠い所まで来たと思うこと」含め、それは「今」ではなかった。どう考えてもまだ試合ど真ん中でなど、有り得なかった。
「どういうこと?」
ゲームカウント5―2。あと一ゲーム取れば終わりという所だった。
軽い気持ちで「これでアナタのこの競技への想いを証明デキる」と口にしたことが、釣り針のような形状をもって彼女の喉に引っかかった。慌てて何でもない、と付け足した所で「覆水盆に返らず」「身から出た錆」「口は災いの元」
「何? あなたあたしの何を知ってるの?」
鋭い目は逃す気がない。身ぐるみ全て脱ぎ捨てて「これで全部です」と宣言するまで許してもらえそうになかった。しかしここで裸になる訳にはいかないので、コーチから聞いたことを話す。もちろん匿名で。
「じゃああなたはあたしの都合に合わせて組んでいたってこと?」
違う。でも事情を聞いた上で心動かされたのもまた事実だった。
「本当は不本意だったけど合わせてたってこと?」
瞬時に「あの女と組みたい野郎なんていないだろう」的なことを口走ったことを思い出す。事情を知らなければここにいないというのはあながち間違っていないし、むしろその可能性の方が極めて高い。
「違ウ」
でも今は違う。始まりはどうであれ、今こうして同じ方向を向いてコートに立っていること。どんな形であれ、互いの強みを理解し、ともに戦えること。同じ温度で同じ競技を想えること。その全てがかけがえのないものだった。
「バカにしないで」
泣きそうな色を含んだ表情。
それは、孤独に怯える、ただ一人の女性の姿。
チェンジコート。一本一本ぶつ切りの競技であるテニスは、戦略を目的としたタイムが存在しない。だからこんな状態でもさっさとサーブの準備をしなければいけない。言い争うように響いた声は相手にも聞こえたようで、すれ違う時佐久間さんと目が合った。
「いい女っていうのはね」
歩調を緩める。
鈴汝さんは水分補給を済ませると、さっさと行ってしまった。
「勝手に幸せなの。むしろ誰かに幸せにしてもらわなきゃいけないような人なんて、同性でもごめんだわ」
綺麗な人だった。鈴汝さんを猫と形容するならたぬき顔というか、やさしい、愛らしい顔立ちをしている。
「同じく『守ってやる』って息巻いてる男性もごめんだわ。だっていい男こそそんなこと口にしないもの」
そう言い残すと杉田さんの後を追う。
圧倒的劣勢にも関わらずその目は光を失わない。相方を、自分達を、自分達のやってきたことを信じてる。ブレない。それは強さだった。
〈あなたはどうしたいの?〉
彼女はそう尋ねた。ボクの軸を尋ねた。
〈『守ってやる』って息巻いてる男性もごめんだわ〉
それは、消去法で弾き出される一つの答え。
安定感のあるストローカー。力強いボレーヤー。圧倒的サーバー。「それ」は不足分を言葉で補って「ある」ように見せているだけ。劣等感を、自分と向き合うことを恐れて問題をすり替える。結局その人に応じた女性が勝手について来る。
「ゲームカウント3―5」
妙に納得する。
だからだ。
瞬時によぎるはテニススクールのラウンジ。
彼女は勝手について来た訳じゃない。自分が宣言して、組むことになったに過ぎない。だから本当は不本意なんじゃないかという思いが拭えない。劣等感がついてまわる。
じゃあ手を離すかといえばそうじゃない。彼女の抱える事情。目的のためにはどう合っても我慢するしかなかった。
我慢。ボク達は義務でもないことのために苦行を選んでいるのか。好きな競技、好きな場所にいるにも関わらず感じる孤独。二人を知らなかった時よりもずっと深い、二人で守っているにも関わらず、ずっと広く感じるコート。どこに打たれても拾える気がしない、
「ゲームカウント5―4」
「アキラ!」
背後から声がした。振り返ると主審と目の合った小出さんが一瞬「ヤベ」という顔をして自身の太腿を叩いた。
「何デスか?」
叩く。太腿を叩き続ける。主審に会釈する。
結局よく分からないままコートチェンジする。ため息一つ、彼女が口を開いた。ボクのため、というよりは小出さんのためだろう。
「走らない後衛は聞いたことないけど、走らないテニスプレイヤーも同じくらい聞いたことないわ」
ハッとする。心拍数が極端に落ち着いた後、身体は勝手に休息モードに入ろうとしていた。
「あたしは」
早々に水分補給を終えた彼女が、前を向いたまま口にする。
「あなたが同じ気持ちでいると思ってた」
そうして歩き出す。
抱くイメージよりずっと小さな背中。震えていた指先。
〈根っからのシングルスプレイヤーだ〉
孤独。二人を知らなかった時よりずっと深い。それは
「youmei!」
顔を上げる。眼鏡をかけた小柄な女性が手を伸ばすようにして鈴汝さんに声をかけた。
それは元々ボクが彼女に渡したエール。あなたがエネルギーを打球に変えられるように。
あの時、彼女はガラにもなくはにかんだ。それは純粋にうれしかったからじゃないのか。自分の弱みを理解してともに戦おうとしてくれることを喜んだんじゃないのか。ボクが自分の強みを理解してくれたことを喜んだように。
彼女の頬がわずかに緩むのが見えた。仲間だろう。周りに集う面々もそれぞれに声をかける。
目をつむる。
深呼吸。もう一度スタートラインに立つ。
自分軸。
「youmei」
彼女に、じゃない。これは自分に。
理解者に依存するんじゃない。いい加減自分の足で立てよ。
劣等感が何だ。そんな自分で始まって自分で終わるような問題に彼女を巻き込むんじゃない。優先すべきは結果。今彼女に何を思われようと、そのためにここまでやって来た。
〈あなたはどうしたいの?〉
思い出せ。余裕なんてどこにもない自分。その時した決意。
相手が誰だろうと関係ない。ボクはボクのするべきことをするだけ。目的に到達するための最善を見極めて、そのために動くだけ。結果的にそれが自分にとっても価値ある決断になり、戦利品になる。ボクは、
戦いよりもラリーを好むような、戦術よりも力比べを好むような集団の一員として、正式に戦う。そう決めた。
「youmei」
次は彼女のサーブ。
「終ワろう」
そのトスが上がった。