22、春季トーナメント混合ダブルスの部決勝④ 綻び
ずっと不思議でならないことがあった。
〈間違ってねぇよ。五十嵐と伊織チャンが本命。でも杉田も伊織チャンが好き〉
別に五十嵐さんを悪く言うつもりはないが、どう見ても杉田さんの方がカッコイイし、何より二人の息がぴったりだった。共有する前提が高い。必勝パターンがあって、そのフォーマットに則って着実に点数を積み重ねていく。偶然ではなく必然。その取るべくして取った一点の積み重ねは、見る側にも安心感を与える程。これが王者である、という手本そのものだった。
だからこそ、この人以上に息の合うパートナーの存在が、にわかに信じられなかった。
〈赤を、青を、緑を、全部白に〉
影。その全身黒の装い。黒ほどの力を持つ者でも、五十嵐さんは白に戻すことができると言うのだろうか。彼女にとってそれほどまでの存在なのだろうか。
イマイチ相入れない。知る術がない以上、結局真相はグレーのまま。
佐久間さんはぱっと見テニスプレイヤーに見えなかった。華奢、とまでは言わなくても、すらりと伸びた手足は白く、アンダーウエアに隠れた足にも、筋肉質な凹凸は見受けられない。ただコートに迷い込んでしまった綺麗なお姉さんといった感じだった。
静かな微笑み。コート上にいる双方ともに美人とはいえ、こうも違うものなのか。かたや森の生き物と戯れ、かたや常日頃からライフル乱射してそうな
「何?」
「何でもナイ」
デュースサイドから放たれた弾丸がチュイン、と頬をかすめる。気を引き締めてサービスライン上に立つと同時に、佐久間さんがボールをついた。さっきよりもずいぶん近くにいる杉田さんの存在感はもはやただの圧。トスが上がった。
上がった?
上げるも何も、手元から打ち出されたボールは、帯電しているかのような震え方をしながら飛んでくる。早くはない。けれどもものすごく気味が悪い。
バウンド音。杉田さんが動いた。
パァン!
横殴り。はたくようなボレーをアングルに決めると、サイドチェンジする。
これだよこれ、と待ち侘びた観客から上がる歓声。
何だ。何があった。
振り返ることができない以上、何が起こったのか分からない。鈴汝さんはサービスボックス一歩後ろで「ごめんなさい」と言うと、そのままベースラインまで下がった。
「フィフティーン、ラブ」
構える。最後に立っていた位置からして、ショートバウンド。そもそもアンダーサーブは通常のサーブを受ける位置で待っているプレイヤーに対する奇襲攻撃だ。ベースラインより後ろに下がっているにも関わらずネット際に落とされる。そのギャップがあって初めて成り立つものであって、そうでなければむしろチャンスボールでしかなかった。
通常よりサービスボックスに近づくような形で構えると、存外二本目もアンダーだった。
その、震える打球。ブ、ブ、ブと音のするような進み方。それは曇り空、ほぼ無風の会場で、見えない何かの上を通過するようにわずかに浮上すると、伸びて、伸びて、サービスライン上に着弾した。思ったよりも深いボールに合わせて下がると、その動きを追う。
〈ボール、よく見て頂戴。回転がおかしいから〉
打ち出しを見ていればどっちに跳ねるかは大方予想がつく。けれど驚くべきはその回転量で、
「!」
着弾したボールはほとんどその場、わずかな浮き上がりを見せた。思った以上の伸びなさに、慌てて低い打点で打ち返したボールは、なるほど。
パァン!
待ち構えていた杉田さんに捕まり、二点目を奪われた。
王道。安心して見ていられる気持ちの良いショットに、会場が湧く。その中にはさっき鈴汝さんを後押ししていた人も混ざっているのだろう。どちらにしても再び向かい風に変わる。
サーブからのポーチ。一人で決めるのではなく崩した所を叩く。これこそ理想のダブルスだった。杉田さんは再びサイドチェンジすると、ラケットを回した。
「よく当てたわね」
「ごめん」と言う直前、意外な声をかけられる。
「初めて受けた時、あたしは思いっきり空振ったわ」
目を丸くする。この人が空振りをする姿がうまく想像できない。
「あなたの武器を覚えてる?」
「ハイ。すごく地味なのヲ」
口角が釣り上がる。それは笑った、と言うよりも悪事を共有するような、後ろ昏い表情。
「そう。地味なの。あなたが無意識にやってること、活きてくるわ。だからコースだけ気をつけて」
それは一見分かりづらい、遠回しなエールだった。与えられた課題は「杉田さんに捕まるな」逆を言えばそうでなければどうあってもいい。そのこと自体、何もない時より自由度が増す感覚があった。
「フォーティ、ラブ」
あっという間に追い込まれる。次のリターンが勝負だった。
打ち出されたサーブ。
よく見ろ。杉田さんに捕まらなければどうあってもいい。
バウンド。浮いて一旦停止したボール。この高さのバウンドを高い弾道に変えるとなると、距離が足りない。それこそ浮いた所を叩かれる。それに杉田さんは手足が長い。真ん中に立てばこの角度から狙える範囲は広くない。けど、だからこそ返りさえすれば、杉田さんの手の届く範囲以外を守備範囲としている佐久間さんへの大きなプレッシャーになる。
〈土戸くんのボールは打ったままが返って来るから〉
それは延々と続けた壁打ちから生まれたもの。不足していたコミュニケーション。共感への渇望。
〈あなたはどんなボールに対しても無理無駄なく力を乗せる〉
完全なる後衛の強みは、リターンで活きる。
インパクトは薄く。ガットの上を滑らせる。
杉田さんにさえ捕まらなければいい。
コースだけ変えて、同じものを返す。
落ちましたよ、コレ、あなたのものですよね。
ストレート。アレイの内側にバウンドしたボールは、その場で弾むと大人しくなる。一瞬のことで何が起こったのか分からない会場全体も、水を打ったように静かになる。
「ナイボ」
彼女の声に振り返る。前から思っていたことがあった。
「多分だけド」
目が合う。音量を絞る。
「杉田さんはココの打点、得意じゃナイ」
息を呑む。彼女は「まさか」と言うと、リターンの位置についた。
そう。まさか、なのだ。
一見普通に返しているように見えるが、ラリーをする時、窮屈な感じがあった。自身の感覚を信じるなら、杉田さんはバックボレーを打つ時だけ力む癖がある。高い打点なら力で押し込める。でも低い打点だとそうはいかない。同時に繊細なコントロールの技術が必要になる。だから今のリターン、緊張から来る力みによって、ストレート、近くに落ちたボールにも対応できなかった。
筋道が明確になると軸ができる。そこに合わせて返球する。
次のリターン。彼女はボクと同じくストレートに返すと、切り返した杉田さんのラケットが何とか届いた。それでもフォアほどの柔軟性を持たない。軸のブレた状態での返球はネットに沈んだ。
完璧な人なんていない。
それでも思わぬ所に現れた急所。ごまかしはきいても、ごまかし続けることはできない。よぎるのは佐久間さんのボレー。ギリギリまで引きつけて、低い打点で完璧に捉えた打球は、ものの見事に味方の弱点を覆う。互いの強みだけを前面に押し出してしまえば、押された相手が勝手に崩れるというのは往々にしてあり得る。
「ゲーム、土戸、鈴汝。カウント2―1。チェンジコート」
〈いや、でも別にお前らを下に見てる訳じゃないぜ?〉
この試合、イケるかもしれない。
「ナイボ」
ラケットの先を合わせる。
束の間生まれた余裕。それに合わせてぐんと下がる心拍数。
人はそれを油断と呼んだ。