18、5、春季トーナメント男子ダブルスの部 小出優陽→寺岡一嘉④
「悪かったな」
そう言うと寺岡は買ってきたペットボトルをよこした。緑茶濃い味。コイツらしいチョイスだった。
「別に」
応えてキャップを開ける。
あの後、思った通り五十嵐はほとんど何もできずに終わった。前半の寺岡の「きちんとしたストローク」に慣れた目は、無意識にそこを基準にして、全てをそこベースで動くようになる。
〈前にも似たようなの見たことあるなぁ〉
そうだろう。あの時はまともなラリーとして成立していなかった。今日初めてアイツとまともにラリーをした分だけ、確実に状況は変わっていた。
同じ所にボールが来ることに慣れた身体は、無駄な体力を使わずに済むよう、省エネモートに切り替わり、スプリットステップを軽んじる。ボールとの距離感をないがしろにする。多少何かが噛み合わなくても返っていれば良しとする。そうして元々の打球の精度を百とした時、いつの間にか七十にまで落ちていることに気づかず続けるラリーは、急に変わったボールの速度、回転量についていけない。加えて同じ所でラリーを繰り返した結果、ストレートに振られても走れない。走らない、じゃない。楽をすることを覚えた身体が嫌がって、あれは自分の取るものではない、と一線を引いてしまう。それは至ってまともな反応だった。
「タイトルが欲しかった訳じゃない」
結果的に五十嵐、提坂ペアとのゲームは7―5で勝利に終わったが、慣れない強打が祟ったのか、試合終了直後から寺岡が前腕と親指の痺れを訴えた。ラケットを持っていないにも関わらず、その右手は気味の悪い震え方をしていた。俺は迷わず棄権した。
寺岡はこの寒い中、借りてきた保冷剤で前腕の内側を冷やしている。親指から続く神経。そこはフォアハンドが強く影響する場所だった。
「昔」
冷めやらぬ拍動の中、どこか別世界での歓声を聞きながら生返事をする。今は何も考えられなかった。
「妹を抱いたことがある」
「…………。…………は?」
何も考えられない脳みそが、その静かな声によって叩き起こされる。
「お前、どういう」
「前に五十嵐と杉田が話してるのが聞こえて、その時五十嵐が言ってたんだ。『幼馴染なんて兄弟みたいなもんだろ。妹抱けるかよ』って」
それは五十嵐と対戦する時にだけ訪れる不調の理由だった。
「……その時五十嵐と目があったんだ。しまった、と思った。普通にしていれば良かったんだが、反射で目を逸らしてしまった。それからまっすぐ向き合えない」
まっすぐなんて向き合う必要どこにもないのに、このカタブツはそう言って押し黙った。
「目逸らしたって、相手からしたら『気まずい話を小耳に挟んだから』ぐらいにしか思ってないだろ」
「それでもこっちの取り方次第だ。あの時笑った気がした」
「真面目か」
「真面目なものか」
「……ガキつくっちまった訳じゃないんだろ?」
「ああ」
「ならセーフだ」
道徳とか倫理とか社会的にとか。そんなのフォーマットでしかない。
正しいことが正しいとは限らない。そんなの社会人やってれば嫌が応にも分かること。自分にとっての正しさ、公共としての正しさ、相手にとっての正しさは一致するばかりではない。だから時にはそこを離れることも必要。
じゃないと、壊れちまう。
俺はお前だから赦す。俺にとってのお前は、何ら変わることのないただの頑固者。視野が狭く、自分のやり方にこだわる、どこまでも面倒くさい
「言う必要なかったのに」
思わず漏れたつぶやきに「悪い」という声が返ってきた。
「お前には言っても大丈夫な気がした」
試合はもう終わった。俺達はもう一緒にいる必要がない。それなのに、冷やす部分を少しだけずらしてその場を動こうとしない寺岡を、その存在を、心底有り難いと思った。
「勿論赦されることとは思わない。ただ俺は」
耳だけ貸す。遠くから聞こえる歓声を、やっと自分から完全に切り離せた所だった。
「同じことを繰り返すことで、余分なことを考えず済むようにしてた。でもそれだと何のためにこの競技をしているのか分からなくなる時があって、元々好きだったものを利用している感じがあって、嫌になりそうだった。そんな時、お前に会った」
耳を澄ませる。自分がしゃべってるのかと思った。
「お前は初めて会った時から楽しそうにテニスをしてた。何にも縛られることなく、自由にコートを走り回って、上手くいけば喜んで、失敗すればムキになって。この競技に対する思いがはっきり見て取れた。それで思い出したんだ」
耳を澄ませる。鼻の奥がツンと痛くなる。
「俺はテニスが好きだった。ただラリーができれば良かった。でもそうして楽しむこと自体、どこか後ろめたさがあって、それはずっとついて回ってた。だからこれを機に終わろうと思ったんだ」
す、と背筋が冷えるのを感じた。終わる、という単語の持つ力は、真っ黒で重い。でも鼻の奥が痛くて、顔を上げられない。
「土戸に頼んだんだ。108回ラリー」
〈大丈夫だ。土戸が手伝ってくれた〉
それは試合前に言っていた事だった。「ひゃくはち」とだけ相槌を打つと、すぐ様「ああ。煩悩の数だ」と返ってきた。
「これでリセット。だからもう俺はこの競技を利用することはない。ただ好きだから続ける」
〈大丈夫ですかぁ? 小出サンのラリー、杉田と一緒で全然安定感ないと思うんですけど〉
だから土戸だったのか。
アイツは来たボールをそのまま返す。安定感のあるボールを、その性質を損なうことなく返し続けることができる。それは最もイージーで、でも並外れた集中力のなせる業だった。
「俺は」
適任ではなかったとはいえ、何だか悔しくてそう口にする。
「俺にも何かできることはないのか」
噴き出す音がした。
「だからもう終わったんだって」
それは解決した故の当たり前の返答。何もない所にかける労力は発生しない。
面白くない俺の気分を察したのだろう。仕方ない、といった形で寺岡が口を開いた。
「じゃあ一つだけ頼む」
やっと顔を上げる。うれしくて。何が何でも応えるつもりだった。
「これからも一緒にダブルスをしてくれ」
終わるか? と聞いた。真っ黒で重い言葉を、思い返せば俺自身も放っていた。
「頼む。お前とするテニスは楽しいんだ。まるで自分まで楽しく踊れている気分になる」
頑固カタブツ。真面目一辺倒のこの男は、全くもって見えづらいが、この男なりにこの競技を愛そうとしていた。不器用で下手くそな愛情表現が、だから真実であると信じられる。
応えるまでもなかった。
「だったら早く治せ」
冷やし続ける前腕。長く付き合うためには日々のケアから見直す必要があった。
「お前そのまま続けてたらバネ指とかなるぞ。ストレッチで充分予防できる類のもんだ。一日三十分でいいからやれよ。教えてやる」
ええ、と寺岡はあからさまに嫌そうな顔をした。
「毎日とか面倒くさそう」
間違ってもコイツが言っていいセリフではない。「何でだ」とその頭をはたく。
その時一際大きい歓声が聞こえた。
「……おい、ミックスどうなってる? そろそろ決勝だろ」
「ああ」
言って掲示板を見に行くと、二人して棒立ちになった。
「勝ってやがる……」
何かの間違いじゃないかと思う。アイツと最後に試合をしたのは、杉田と組んだ十二月。あれから丸二ヶ月。あの引っ込み思案なカタコトアキラが大健闘だ。
「オイ、嘘だろ。これ」
寺岡が指差す。第一シードが順当に勝ち上がって、アキラ達から伸びる線の手前で止まった。
見物ではある。全くもって見物ではあるが、
「……お前、どっちの席つく?」
息を呑む。
揺るぐことのない第一シード。そこに記されていたのは
『杉田、佐久間』
不動の最強ミックスだった。
あれ、と思う。
さっき寺岡が言っていた中で、今更引っ掛かることがあった。
〈前に五十嵐と杉田が話してるのが聞こえて、その時五十嵐が言ってたんだ。『幼馴染なんて兄弟みたいなもんだろ。妹抱けるかよ』って〉
もしかしたら俺は何かとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
寺岡、小出対五十嵐、提坂 7―5 試合時間四十八分