18、5、春季トーナメント男子ダブルスの部 小出優陽→寺岡一嘉②
五十嵐のペアとの試合は、案の定グズグズだった。
寺岡自身、ストロークこそ安定するものの覇気がない。無難なボールに怖さはなく、結果凡庸なラリーが続いた。
「何か、思ってたより全然っすね」
五十嵐の相方は提坂という男だった。職場の後輩に当たるらしい。
一方俺としても、勢いがなければストレートをケアしてポーチに出られない。その位簡単に打ち分けられるだけの余裕が相手に見えた。
寺岡はガットを直しながらブツブツと何かを唱えていた。完全に自分の世界に入っている。こっちのミスこそなくても、相手のペースなのは明らかだった。
「寺岡」
その顔が上がる。目は合わない。
「大丈夫だから。きちんとやるから」
きちんとって何だよ。そんなこと求めてねぇよ。
自分の声がまるで届かない。そんな絶望をよそに、寺岡はリターンの位置についた。きちんと返球するため、きちんと正規のルートを通るように返したリターンは、
パァン!
正規ルートそのまま、キレイなポーチを決められた。
正しいことが正しいとは限らない。そんなの社会人やってれば嫌が応にも分かること。自分にとっての正しさ、公共としての正しさ、相手にとっての正しさは一致するばかりではない。だから時にはそこを離れることも必要。じゃないと自分が壊れてしまう。そんなありふれた融通がきかないのがこの男だった。
頑固。視野が狭い。自分のやり方を押し通したい。
それで結果を残してきたからこそ、余計にそこに固執するのだろう。まだそれでまとまっちまう年でもないだろうに。
「終わるか?」
リターンの返球角度が甘かったこと。修正をかけている所悪いが、問答無用で続ける。
「話になんねぇ。こんなんじゃ一緒にやる意味ねぇだろ」
いくら対戦相手による影響が大きいとしても、そんな黒星一つがかえって目につくことがあった。九十九の白と一つの黒だったら特に。その黒を見て見ぬフリして今まで通りペアを続けることが、「協力して消すことのできない汚点」にこだわらずにいることが、俺にはできなかった。
「ペア、やめるか?」
シングルスなら、寺岡ならいい所までいけるだろう。もちろんダブルスでもやること自体は変わらない。ほとんど無傷に近い状態でテニスを続けられるに違いない。
じゃあ俺は?
〈そこを動くな。ストレートを守れ〉
後衛がいないと成立しない。自分はあくまで飾りであって、いてもいなくても競技自体に支障はない。この競技にとって俺は必要ではない。
「小出……」
俺の様子がおかしいことに気づいたのか、ようやくまともにこっちを向くと、何かを言いかけた。その時だった。
「何してんのつまんない。こんなことのために時間かけてんの?」
高い声に振り返ると、すり鉢状の観覧席、その最前列で頬杖をついている女がいた。南側の席はちょうどコートの後ろに当たる。だからそれは目線を少し上げれば容易に会話のできる距離だった。
誰だ?
高い位置で結んだ髪。短く刈り込んだ前髪。その下にまっすぐ引かれた濃い眉。
見覚えのない女に戸惑うと、隣から声がした。
「千嘉……」
「何? なんのための力自慢だったワケ? そのためにスポーツやってんじゃないの?」
こっちの事情などお構いなしにポンポン言葉を投げつけてくる女は、後々聞けば寺岡の妹だという。
「……聡くんは?」
「別のコートの試合見に行ってる。知り合いがいるからって来てみたら、こんな所にいたの?」
よく分からない。事情は分からないが、サトシ、という音が引っかかった。それは試合前、コイツが見ていた封筒にあった名前だった。
割ときちんとした形式の封筒。もしかしたらあれは結婚式の招待状じゃないのか?
結果として二人の間に交わされたやりとりはそれだけだった。それだけにも関わらず、突如として覚醒する。
もはや勝利を確信している相手は、まさか数秒のやり取りで何が変わるなんて思ってもいない。寺岡は、次のリターンでノータッチエースを決めた。
次のポイント。返球して前に出ると、背筋がザワついた。偶然の一球として前のポイントを現実として受け入れずにいた相手は、確実に変化した温度にようやく気づく。
目に見えない力に圧される。人はそれを「圧」と呼ぶ。
圧されまいとその場に踏みとどまる力は必要。それでも「圧を感じた」というのは一種の生体防衛本能であり、だから
パァン!
必ずしもその判断が正しいとは限らない。本能は明らかに危険であると警告を発しているのだ。
顔のすぐ傍を走り抜けたストレート。前衛の提坂はその場にへたりと腰を下ろした。
「大丈夫、偶然だ」
「偶然? だったら余計嫌っすよ!」
時速何キロか知れない。記録にはポイントしか残らない。
けれどそれは、今まで見てきた打球の中で一際速く、オムニでなければインアウト判定もできなかった。
そんなボール、ノーコンで来られたらたまったもんじゃない。何とか立ち上がった提坂がもう使いものにならないことは明白だった。
そうして確かに五十嵐の言うことは当たっていた。偶然。寺岡の打球は、威力こそ上がったものの、その分コントロールしきれず、ほとんどアウトを繰り返した。それでも何本かに一本、凄まじいショットが決まる時が来る。
振り返る。その度、寺岡の妹が手を叩いていた。その姿を見て納得する。
ああ、そうか。この子だったんだ。
〈きちんとやるから〉
どうしようもない頑固者。そんなヤツが自らのフォーマットをぶち壊したのは、たった一人、妹による承認がため。コイツにとってのテニスは、プレイスタイルは、そんな短い拍手一つのために簡単に捨てられるようなものであり、それはコイツを縛っていた本体に違いなかった。
じゃあ。
変化した相方に合わせるために俺に何ができる。
それは今まで寺岡がやってきたこと。好き勝手動き回る俺に合わせてやってきたこと。
「どこまでだ」
寺岡が振り向く。
「どこまで前ならいける?」
その目が見開かれる。
「俺がカバーする」