18、寺岡一嘉 ラリー
「頼みがある」
それは正式に名乗った翌週、曇天の下、そう言って呼び出したのは珍しい相手。
大柄の黒縁メガネ。淡々と自分の役割をこなす静かな職人。
寺岡さんはコートに入ると「いいと言うまでラリーを続けて欲しい」と続けた。理由を尋ねたところで、「ただラリーがしたいだけだ」と返される。それならもっと楽しそうに言うだろうと思うが、黙って頷いた。
ベースラインに立つと、やけにコートが広く感じた。いつもは何人もの人が駆け回っている上、半面や三分の一ずつ使用するのがほとんどで、シングルスでもやらない限り、純粋にこの広さと向かい合うことはない。それでもコートの向こう側から感じる圧は変わらない。
寺岡さんはボールを二つ、ポケットに入れると、一球目を打ち出した。
「戦いたいんじゃない。続けることに重きを置いて欲しい」そんな前置きから始まったラリー。何の目的もない訳がなかった。ボクには彼が大事な何かと向き合おうとしているように見えた。
〈ただラリーがしたいだけだ〉
そう言った寺岡さん。
〈ただラリーがしたかった〉
前にも聞いたことがあると思い当たったのは杉田さん。
プレイスタイルこそ陽と陰に分かれるものの、寡黙な二人はどこか似たような色をしていた。同じ目的で集った人達。出会うべくして出会った人達。けれども
〈勝てるパートナーを求めてる〉
一方でタイトル保持者。彼らもまた、勝負の世界を避けている訳ではない。相手とのラリーを楽しむ傍ら、相手の嫌がるボールを配球する。相反するやり取りは、スクールの中でも惑う時がある。試合ならここに打つ。けれど自分はラリーがしたくて、この人達とするラリーが好きで、つい楽しむことを優先してしまう。コースを狙うのではなく、打ち勝つ。効率よりも重きを置くものがあった。
優勝常連というからには、そんな勝負の世界で容赦ないやり取りもするだろう。けれどこの人から「点を取るため」として相手の弱点を責めるようなテニスは想像できなかった。その位、何というか、いつだってこの人のテニスから感じるのは誠実さだった。
打ち返したボールが返ってくる。
当たり前ではないことが、当たり前と思えるような頻度で、正確さで。
この人は打とうと思えばどんなに難しいコースでも打ち分けられるだろう。でもそれを使わない。まるでそのせいで長引くラリーそのものをわざと求めるように。負荷。どこか自罰が透けて見えるかのようなストイックさで。
この人はこのやりとりを通じて何を求めているんだろう。
ボクは、このやりとりがしたくてテニスをしているだけで、言うほど技術もないのに、どうやって勝ち上がるつもりなんだろう。
息が上がる。全力でないとは言え、同じ運動を繰り返していれば乳酸は溜まっていくし、酸素も必要になる。余分なことを考える余裕が奪われていく。
不意に訪れたイレギュラーバウンドに、打点を損なう。ネットにかけてしまうと、随分と長く続いた一球だったにも関わらず、寺岡さんは休むことなくボールを取り出した。
終わりは「寺岡さんがいいと言う」まで。具体的な数値目標が提示されていない以上、いつまで続くか分からないというのは精神的にクるものがある。たまらず「何球ぐらい続ケたいンですか」と尋ねると、「110」と返ってきた。
何だそれ、と思う。百なら分かる。そのプラス10は何だ。ミスターストイックの考えることは分からない。本来彼が持つべきは、ラケットではなく先の丸い棒であり、叩くのはボールではなく木魚な気がしてならない。
その時ふと、一番最初、強姦魔コーチとしたラリーがよぎって背筋が冷えるのを感じる。
まさかボクが、110返す訳じゃないよな。二人合わせて110だよな。
既に打ち出されたボール。大事な何かと向き合おうとしているように見えてしまった以上、どうあってもボクも付き合うしかない。それならどっちか確認する行為自体野暮だった。
いつの間にか霧雨が降っていた。
狂うことなく返ってくるボール。その異常性。
この男はどこか狂っている。そうしてもしかしたら向き合いたいのは、そんな自分自身なのかもしれない。
〈あれはあなたなら通じると思ったから。ラリーでコミュニケーションが取れると思ったから〉
滅私。
自分の色を消すことで、とにかくあの辺に返すことだけで彼が向き合いたいと思えるものと向き合えるなら。ボクでも役に立てるなら。
直接言葉を交わさなくても通じるやりとりがある。テニスはそれを可能にする。
この男の持つ痛み、悲しみが伝染する。それが癒えるなら。
数えるのを忘れた。ただ夢中で返し続けていると、最後、男がボールを止めた。
「ありがとう」
絞り出された声。しっとりと雨に濡れる。
「もういい」
それは、疲労からではない。今にも泣き出しそうなのをこらえるかのような、喉の開かない音。一束になった前髪。その下で静かな光を宿す目。
寺岡さんはボクの頭を撫でると「悪かった。風邪引くなよ」と言った。
この人は一体どんな罪を犯したというのだろう。
こんなやさしい声を出せるようになるために、一体どれだけ傷つかなければいけなかったのだろう。
非言語のやりとり。僕たちはただ百球そこそこのやりとりをしただけに過ぎない。
〈コート上にいる時の方が深く繋がれる気がする〉
けれど不思議と分かってしまうことがある。
相手の感情が直に流れ込んでくるような感覚。確認しない以上、それが正しいものか証明する術はない。それでもその必要性を感じない。それは本人の口から音として聞くより遥かに確かなことだった。
「お疲れ。先に上がってくれるか」
そう言うと、濡れたベンチに腰を下ろす。ボクは頭を下げると、そのままコートを出た。
汗と雨で服が身体に張り付いている。
振り返ると、ベンチに腰掛けたまま寺岡さんが空を見上げていた。
その祈りが届きますように、と願った。