17、春季トーナメント 混合ダブルスの部
コードボール:ネットに当たって返った打球
二〇一五年二月二十ニ日(日)天候、晴れ コート、オムニ
ザベストオブワンセットマッチ、鈴汝サービスプレイ。
「え、バカなの? もしかしてあなた、学生テニスやるつもりでいる?」
忘れていた、訳じゃない。けれど彼女を守るなんておこがましいことを思う度、こんなふうに現実に引き戻される。自分の足元を見失わずに済むという点では有り難いと言えば有り難い。
しかしいくら現実は甘くないとは言え、少しぐらいのご褒美はないと続かないというのも事実。
「そう。お菓子が食べられるから勉強頑張るの。お利口ね」
「違ウ!」
ツン、と斜めに構えて見せる目は冷ややか。上がった顎を汗が伝った。
「あなたはどうか知らないけど、あたしは極力走りたくないの。一試合一時間として、一体何キロ走るつもりよ」
技術はもとより、戦術、先を見据えたパフォーマンス維持の話。それはそうと、
「走らナイ後衛なんて聞いたコトない」
「何? 何か言った?」
「何でもナイ」
そんなこと言うなら、サービスライン辺りまで下がらなければいけない。元々後衛をやるつもりの彼女と組み合わせたらなんとディフェンシブな陣形だろう。だったらいっそのこと平行陣にしてしまった方が
「それができるならぜひそうしたいわ」
ぐ、と言葉に詰まる。
平行陣。寺岡さんと小出さん相手にぶっつけ本番で使った陣形は、「後ろに人がいないだけ」にも関わらず、勝手が分からず自滅して終わった。特にバックの足元に沈められたボールはどうしても浮いてしまい、格好の餌食となった。
「待ててないのよ」
ラケットを立てて手首を固める。彼女は背筋を伸ばして立つと、面をかざした。
「ここ。ここまで待つ」
ボレーの基本だった。
「来たら、返してあげるの。あなたはどうしても自分からボールを迎えに行ってしまう。それがかえって『打ち返された瞬間に判断したボールの質』を歪めてしまってる。絶対に狂ってはいけないものを狂わせてる」
この人は思ったことを恐れることなく伝えてくれる。自分がどう思われるかではなく、相手にとって為になることを迷わず優先させることができる。
「合ってるから。ストロークではボールとの距離感を違えないあなたが、自らその感覚を疑うような動きをして自滅してる。こんなつまらないことはないわ」
一回戦が終わったところだった。もう本番に足を突っ込んでいるにも関わらず続くダメ出しは日常の光景そのもので、かえって普段通りの自分でいられる気がした。特に緊張からまだ浮き足立っている状態で、正直今も自分が何をしていたかよく覚えていない。結果的に無事一回戦を終えたとはいえ、由々しき事態に違いなかった。
「分かっテる」
目をつむって深呼吸。ゆっくり息を吸って、その倍の時間をかけて吐く。それを三回繰り返す。目を開ける。脳まで行き渡った新鮮な酸素によって、目の前にあることをあるがまま認識できるようになる。
ニュートラル。フラット。全ては平常心ありき。
「心拍数コントロール」
自分を取り戻す。できることできないこと。できるのにやっていないこと。できないのに無理にやろうとしていること。分別、自分の強みを思い出す。それを活かすために、そこに繋ぐための動きを逆算する。そこに彼女の意見を取り入れる。
「……前後交代ハ?」
「場合によってはアリね。ただ、始めからそれありきで考えないで。戦い方を考えて頂戴」
走らせるべきはボール。自分達のどちらかがいるところに返って来るよう、コントロールする。あるいは選択肢を消していって、残った場所に自らを配置する。
確率の問題。それでも経験則は裏切らない。彼女は笑った。
「どれだけ打ってきたと思ってるの」
それは、共有できる喜びだった。
「誰を相手にしてきたと思ってるの」
聞けば寺岡さん、小出さんは、地区大会での優勝常連者だという。杉田さんは、ミックスで出場した時は必ずと言っていい程負けなしらしい。
「ホント、ひどい人達だ」
真実を知るのは全部後からのこと。知らずに去った人達はおかしいクラスに当たったと思ったに違いない。世の中にありふれている理不尽。それはもしかしたら突き詰めて初めて理解できるものなのかもしれない。
「否定はしないわ」
そうして彼女は歩き出した。二回戦の時間が迫っていた。一旦頭をクリアに。まずは相手を正しく認識する。自分を取り戻すのは、照合するのはその後でいい。
「行くわよ」
白に、ラメのパープルのラインの入ったラケット。ウェアの橙に映える。
美しい人。勇ましい人は、既に狩りの顔をしていた。
「アキラ」
背筋が、伸びる。
〈何で言わなかったの〉
それは試合の前の週、いつも通りスクールでの練習の合間、小出さんが「アキヨシ君はミックス出るの初めて?」と茶化すような口調で話しかけてきた時のこと。
理解されることはない。されるつもりもない以上、一定の距離以上近づくことはない。そう思っていた。それまでは。
当たり前に流してきた音を堰き止める。それは話の中央を欠いたイレギュラー。その時ボクは、初めて本当のことを口にした。
「違ウ。『アキヨシ』じゃナイ」
「ん?」
小出さんが足を止める。息を吸った。また一人、人と出会う。
「ボクの名前はアキラ。秋に良いでアキラ」
各々自分のペースで水分補給をしていた面子が、揃って動きを止める。思いがけず発生したイレギュラーを、それぞれが受け止める。
それまではそれが嫌だった。別にコミュニケーションを取ること自体、名字で事足りる。わざわざ名前を訂正したところで、互いにとって無意味な一瞬に過ぎないと思っていたから。でも。
イレギュラーへの対応。この人達なら取ってくれると思った。例えそれがコードボールであっても、ボールが二度バウンドしていない以上、迷わず走り出すことのできる人達なら。
目を丸くした小出さんは「何だ、最近の子っぽいな。キラキラか?」と言った。
キラキラと言われる程特殊だとは思わない。学生時代、やたら画数の多い漢字で「ルキア」や「カイリュウ」と読んだクラスメイトがいた。彼らに比べたら大人しい方だ。
「キラキラって……。言ってる自分の方が眩しいだろ」
寺岡さんが口を挟むと、小出さんは「まぁな。なんったって俺様は太陽だからな」と胸を張った。鍛え上げられた胸筋の筋が透ける。
「アキが訓読みでラが音読みなんてヘンなのー。まるで二つのものを混ぜたみたーい」と赤妻姉が言う。妹が「ホント、ヘンなのー」と相槌を打つ。
音読みと訓読み。伝来。中国と日本。
「いい名だな」
静かにそう口にしたのは杉田さん。好き勝手笑い合っていた女子高生は、元々杉田さんに対して苦手意識があるため、そそくさとコートに戻る。
なんとなく反応に困って俯くと、鈴汝さんが声を上げた。
「何で言わなかったの?」
それは純粋な疑問であり、抗議だった。ペアである自分でさえ知らなかった、という思いが透けて見える。けれど聞かれなければ答えようがなかった。
ただそれでも気分を害さないよう、普段使う訳じゃないし、わざわざ言う必要性を感じなかった旨を伝えると、何を言う訳でもなくコートに戻って行った。
彼女の機嫌は、今後のダブルス練習に直結する。滅入る気分にすかさず小出さんがふりかけの如くカラフルな煽りを入れた。
「いやぁ、モテる男は辛いねぇアキラくん」
このパチモンみたいな太陽は、きっと電球か何かでできているに違いない。
初めてそう言い返してやると、噴き出すようにして寺岡さんと杉田さんが笑った。珍しいことに鈴汝さんは驚き、その様子を察知した赤妻姉妹が「何々?」と足早に戻って来る。
また一人、また一人と出会う。人と、出会う。
楽しいのに。心からうれしいのに、何故か分からないけど、同時に泣き出したい気分になる。そんなこと、今まで考えたこともなかった。
偶然居合わせた空間。それはそれぞれ異なる方向から伸びる線が交わる一点のように、この時は永遠に続く訳ではないのだと気づいてしまった。
土戸、鈴汝対谷口、矢上 6―1 試合時間三十五分