15、試合 VS寺岡、小出
十二月十日(水)天候、晴れ コート、クレイ
ザベストオブワンセットマッチ、杉田サービスプレイ。
強い西風が吹き付けていた。防風林など何のその。頬を打つような突風に、思わず目を細めると、目の前まで来ていたボールの弾道がぐねりと歪んだ。
こんな中でまともな試合なんかできるのかよ、と思うが、思うだけで口には出せない。与えられた同じ条件の中で黙々とアップを続ける集団は、アマでありながらプロであり、すでに風を掴んだ安定したラリーを続けていた。
デュースサイドの影が動く。筋張ったしなやかな四肢。杉田さんは何も言わない。
時は数分前に遡る。別に今に始まった事ではないが、寺岡さん、小出さんと対戦するのがミックス、というのはおかしい気がした。
「それを言うなら女子ダブルス相手に、野郎が一人混じってたような」
小出さんの声は一切無視する。とにかく男子ダブルスに鈴汝さんが入るのは違う気がした。という訳で。
続くラリー。杉田さんは何も言わない。鈴汝さんの代わりに自分が出る、と申し出た時もうんともすんとも言わなかった。ただ与えられた条件のままテニスをしている。
「ラッキー」と悪びれもなく言う小出さんの声は一切無視して、杉田さんはそれでよかったのか聞きたくなる。でも聞いたところで自分の気休めにしかならないことは分かっていた。
〈変わらないねぇ、杉田〉
パァン、トッ、パァン。
〈ただの本能だよ〉
〈危険を感じると動かずにはいられない〉
〈伊織を狙われる度〉
パァン、トッ、パァン。
〈知ってるか? アイツのルーティン〉
〈ファーストが入りますようにって、ガットとボールで手を合わせるんだ〉
パァン。
アップが終わった。
流石としか言いようがない。
杉田さんのサーブは返球コースを限定する。リスクを冒してコースを変える余裕を生まない。ノーバウンドで取れない以上、ベースラインに釘付けにすることができる。結果、マウントにも似た力で一ゲーム目をもぎ取る。かく言う自分もボレーを二本決めたが、完全におまけだった。
サーブ権が寺岡さんに移る。
まともなトスさえ上げられないような状況で、それでも何とかゲームを始めると、それまで静かにしていた小出さんが急に存在感を発揮してきた。元々リズムでテニスをしているような人だ。上手い人ほどテンポよく続くラリーは、彼の主食だった。
ドンピシャで生み出されるボレー。体幹が強く、多少無理な体勢からでも持ち直す力がある。以前偶然見かけた腹筋は見事に割れていた。詰まるところ、
守備範囲イコール攻撃範囲。それが異常に広い男は、ラリーの最中どこにでも現れて頭を悩ませた。前衛の役割は決めることだけじゃない。要所要所で顔を出して存在感を示すこともその一つ。そういう意味では、小出さんは前衛をやるために生まれてきたような人だった。
じゃあ小出さんを嫌がって半端なロブをあげようものなら、ここから最も遠い場所にいるはずの男からレーザービームが放たれる。分かっていても抜かれるストレートは、誰の足をもってしても追いつけない。結果、前衛の力量差がそのままゲーム展開に現れていた。
〈ラッキー〉
それは、誰の目から見ても明らかだった。
二ゲーム立て続けにとられ、小出さんのサーブになった時、杉田さんが近づいてきた。
「出ろ」
てっきり試合中であるにも関わらずクビ宣告をされたかと思って震え上がるが、それは違うようで、
「打ったら前に出ろ、と言っている」
と言い直された。なぁんだ、クビになった訳じゃなかったとホッとするのも束の間、
前に出ろ?
聞き慣れない指示に、思考がフリーズする。自分は前衛だ。だから杉田さんが前に出るなら分かる。けれど自分が前に出るというのは
「平行陣だ」
目をかっぴらく。
すごい上手い人達がサービスライン上でノーバウンドで打ち合うアレのことを言っていた。平行陣は前衛後衛という概念を持たない。ただ中央のラインをお互いの守備範囲として明確に区分しただけの、前傾姿勢ノーガード殴り合いのステージだった。
「リターンを打った瞬間、前に出ろ。何ターンも置かない。俺もそのつもりで動く」
待て待て待て待て落ち着いてくれ。
平行陣なんてやったことがない。しかも試合でいきなりとか、こんな風の中で。
風。
見やる。ボールに加えられた力などお構いなしに吹き付ける西風。ラリーに慣れている寺岡さんはもとより、ゴリゴリのトップスピナーの小出さんのボールは、その煽りを受けて、いつも以上に異常な伸びをした。まともに戦う一手段としてイレギュラーの少ない、変化前に叩くのはアリだった。でもいかんせん
「誰だって初めてはある。それがたまたま試合だっただけだ」
この男は、初めて女を抱く時も動じなかったに違いない。
ぐ、と奥歯に力を込める。言っていることは横暴でこそあれ、間違ってはいなかった。とにかく二ゲーム連取された今、流れを引き戻すためにはやるしかなかった。
「大丈夫。後ろに人がいないだけだ」
ツッコミどころは満載だが、気にかける余裕はない。
極限の緊張状態の中、またしても脳裏をよぎったのは佐久間さんだった。
フォアサイドで構えた杉田さんは、風の存在など気にも留めない。
その姿は何ものにも左右されない王様のようだった。
試合の後、杉田さんにどうしてこのクラスにいるのか聞くと「いられるから」という、訳の分からない答えが返って来た。鈴汝さんといい、これは語彙力以前の問題だ。もう少し詳しく教えて欲しい旨を伝えると「続けていられるから」という、ヒントにもならない付け足しがされて返ってきた。もしかしたら始めから会話をする気がないのかもしれない。
「違う」
杉田さんは頭をかくと「単純に居場所がここしかない」と言い直した。
意味が分からない。どう考えても上のクラスにこそ、その居場所はあるように思えた。ない所をいくら探したってないに決まってる。
「お前はどういうテニスがしたい?」
顔を上げる。過去に聞いたものと似たような問いかけ。ラリーがしたくて、と答える。いつまでも続くと錯覚するような、引っ掛かりのある。
そこまで考えて思い出したのは彼女だった。ラリー。いつまでも続くかに思えた瞬間、あの時、深いところで何かが引っ掛かるのを感じた。釣り合うというか、引き合い、バランスがとれるような。本物は、だからその感覚が双方にできて初めて成り立つものではないだろうか。だから、あの時、長々と続くラリーをしながら、誰もその感覚に気づかないことを祈った。
何を隠そう、その感覚はどこかセックスを彷彿とさせた。深いところでのやりとり、果てることのない、ただ気持ちよさだけを共有して螺旋を描いていく。続くほどにキリキリと尖っていく神経。それは見方を変えれば「人前でのプレイ」に違いなかった。
「俺も」
はっとする。杉田さんは真面目な顔を崩さない。崩さないけれど、その様子はどこか寂しげに見えた。
「試合に勝ちたいんじゃない。ただラリーがしたかった」
気づく。
上のクラスに行かないのは目的が違うから。コースを狙って、仕留める。そんな短いやりとりじゃない。ただ純粋に打ち続けていたかった。
気づく。このクラスの人達は我先にとコートに入って、我先にと帰って行く。とにかく打ちたい集団なのだ。そう考えると、他のクラスと違って合間にレッスンが入らないのは、この人達がそう仕向けているからに思えてくる。コーチは打ちたい集団が満足するようなメニューを考え、提供する。箱だけ作って、あとはお前ら勝手にしろ的な。
気づく。寺岡さん、小出さん、鈴汝さん、赤妻姉妹、
〈しょうがないじゃないか。残っちゃったんだから〉
そして目の前にいるこの人。
「ここは、打ったボールがちゃんと返って来る」
何が初級だ、と思っていた。ずっとずっと思ってた。でも、
ちゃんと初級だった。目的は勝つことじゃない。ただ打ちたいだけ。それが洗練されて、形を成した集団に過ぎない。
気づく。それがどれ程幸せなことか。
気づく。杉田さんの抱えてきたであろう孤独に。
実力差があると、ラリーを拒む人間が出てくる。皆が皆差があると、ついには誰もコートに入らなくなる。
テニスをしに来ているのに、
自分の向かいには誰もいないのだ。
そんな中でやっと見つけた場所。似た者が集っていた。ラリーに飢えている、同等のやりとりのできる相手。本気を出してもいい相手。
本気を出せるのは、相手が返せると思うから。純粋にその人自身も楽しめるから。全くもって気を遣わずに済む。そうしてお互い、互いを必要とする。釣り合う。そんな相手に出会えることが、どれ程希少なことか。
一歩下がって頭を下げる。
ありがとうございました、と言うと会釈を返された。
力不足ですいません、と言うと何も返さなかった。
もっと打てるようになります、と言うと、少しだけその頬が緩んだ。
「お疲れ」
そうして杉田さんは帰って行った。
大きなリュック。大の大人の背中が丸々見えなくなる程の。
それはまるで、この競技への思いの大きさを表しているようにも思えた。
寺岡、小出対杉田、土戸 6―2 試合時間二十四分




