12、鈴汝雅 混合ダブルス
「だから、どうして今ここにいるのよ」
振り乱すようにしてそう口にする様は、言いつけの守れない幼児を叱る時の様子に酷似していた。同じベースを持つ者同士なら阿吽の呼吸でできることも、阿吽の中身を分解して一から説明しなければいけない、そのストレスたるやいか程か。
「イカでもタコでもないわよ。普通に考えたら分かることでしょう」
今は二人でコートを守っているの。そう言うと、鼻息の荒いまま定位置に戻っていく。同じ空間を共有する以上、一人の不穏は伝播する。伝播して、不穏な空気を作り出す。そんなヒリついた空気を、社会人経験で慣れている大人組は受け流し、子供組は分かりやすくやりにくそうな素振りを見せた。今の所コーチは動く気配がない。
ショートボールを拾うとして前に出るが、すぐ様前衛にいた女が返球する。その後相手がネットにかけることでラリー自体は終わったが、振り返った彼女から放たれたのがさっきのセリフだ。返そうとして、そう手短に伝えるが、すぐ様「私が取れないと思った?」と返される。違う。そうじゃないけど。
「けど、何? 仮にカバーで走ったこと自体、百歩譲っていいとして、その後は? 私はあなたが対角線上にいると思ってる。今のストレート、ネットにかからなかったら取られていたわ」
結果ネットにかかっているんだからいいじゃないか。そう思った途端、「なめんじゃないわよクソガキ」と釘を刺された。
一体どこで何を間違えたのだろう。やたら勝ち方にこだわる女は、能動的に取ったポイント以外を徹底的に分析、糾弾した。打ちミスで終わったものは「チャレンジの末のもの」と「逃げた末のもの」に分類され、前者は可、後者は不可とされる。不可は断罪対象。「自分だけならまだしも、味方の士気下げんじゃねぇよ」という、世間で言う「白い目で見られる」刑罰が待っている。
そして、単なる打ちミス以外の処罰の対象は、今のようなポジショニングミス。シングルスベースの自分にとって、前後衛に分かれる以上、背が高いとは言えず、守備範囲の広くない彼女は、チャンスボールを決めてくれる存在であって、基本自分がすべてカバーするつもりでいた。その動きの末の断罪である。
「あらそう。ダブルスのコート、全てカバーできるの。すごいわね」
皮肉たっぷりにそう笑うと、再び「なめんじゃないわよ」と言われる。そんなつもりはない。そんなつもりはなく、むしろこの人が気持ちよくスマッシュを決められるようなベースをつくれたら。そのために耐えるのが、土台になるのが自分の役割だと思っていた。しかし、彼女の認識は全くもって違うらしい。
「私の方があなたより数倍安定したラリーができるわ」
いや、それはそうかもしれませんが。
プライドどうこうを持ち出すつもりこそないが、それにしたってこれじゃあ勃たなくなるのも時間の問題だった。揺れる金色のピアス。それこそ一人の方がよっぽど戦えそうな彼女は、背筋を伸ばして今向かい合うべきものとのみ、向き合う。
一体どこで何を間違えたのだろう。自分は五十嵐さんと組む事で降りかかりかねない反動から、彼女は守りたいと思っただけなのに。そうだ。考えてみれば、元々ミックス自体、自分の辞書に登録されていないほど興味のないものだった。だからこんな「この一球如何で生死を決するかのような戦い方」を強いられる覚えは無い。基本的に自分はただ楽しくテニスがしたいだけなのだ。
「だったらやめる? 情けないわね。自分から言い出したクセに。何か違うとなったら簡単に投げ出すの。サイキンのワカモノは根性ないって言われたいの?」
「サイキンのワカモノ」の所に嫌な身振りをつけて言う。いや、だからこれは仕事じゃないし、故に義務でもないから。趣味で根性とか持ち出されるの意味分かんないし。
「いいわよ。後になってやっぱやめたって言われるよりずっとマシ。私のやり方が受け入れられないのならさっさと降りて頂戴」
何が守らなければ、だ。意識が違いすぎる。この女は一人で成り立てる。価値観の相違。別れるにはもってこいの、最もオーソドックスな理由を用意できる。なるほど。コーチが言っていた「また組めるかまでは分からん」はこういう意味か。五十嵐さんはああいうプレースタイルだから組む相手がいなくて、この女はこんな人間だから組む相手がいなくて、だからペアとして成り立っていたんだ。何も自分が首を突っ込むまでもなかった。元々なるべくしてなった、お似合いの二人だった。
そうして迎えた最後の一球。何度もひっぱたかれるようにして教え込まれた彼女の考えが、ポジショニングに出る。二人でコートを守る。そのために自分はどこにいるべきか。目の前にボールが来た。それは偶然見えたに過ぎない。相手前衛の動き出しが一歩早かったがために空いた抜け道、ストレートに打ち込む。
正しいポジショニングからの能動的一打。それはとるべくしてとった一点。
見やると女は泣きそうな色を含んだ表情で言った。
「やればできるじゃない」
金色のピアスが揺れた。
「揉めたことがあってな、前付き合ってた相手と」
一試合終えただけでクタクタなのは、体力的以上に精神的疲労から来るものによる。終始ニヤついているコーチは「人数合わせのため交代で入るダブルス」に女が入ったのを見計らって「どうだ」と声をかけてきた。回らない頭であの女と組みたい野郎なんていないだろう的なことを口走った矢先、少しだけ寂しそうな顔をして返されたのがそんな答えだった。
「本人にとっては単なるダブルス、競技の一環だとしてもパートナーが納得できるかは別問題だろう。例えば社交ダンスなんかもそうだが、付き合っている相手ならともかく、競技で別の異性とパートナーを組んで、その競技の間中その異性と行動を共にするってのは、頭では分かっていてもなかなか面白くないものだ。強がって、本当は嫌なのに口ではいいと言っておいた挙句、後々こじれるなんてケースも少なくない。そんな中で前もってきちんと嫌だと言えるのはかえって誠実だとは思うがな」
〈何でも去年別れたとか〉
小出さんの言っていた男だ。その話が本当だとしたら、去年五十嵐さんと組んでいた彼女は、男よりもテニスをとったことになる。いい歳をした女が、十年来のパートナーよりも趣味である一競技を取る。それはにわかに信じがたい選択だった。同性のダブルス、もしくはシングルスではダメなのだろうか。それ程までに彼女にとってのミックスは特別な競技なのだろうか。
「アイツは学生の時から根っからのシングルスプレイヤーだ。でもそれは好んでと言うよりか一人で戦うしかなかったからで、本当はダブルスがやりたかった。でも同性のパートナーを探すには難しい年齢でな、丁度子供を産んで育てる時期と重なってる。だからある程度継続して戦えるミックスの方が組みやすいってのはあるな」
後は、まぁ、性格上の問題もあるだろう。
「いずれにせよアイツはテニスが好きで、それを証明するために勝てるパートナを求めてる。仮に一つの大会で勝ち切ることができれば、それがこの競技への愛情を証明する一材料になる。だから自ずとパートナーに求めるものはデカくなるんだよ」
言って肩ポンされる。それは「だから全部が全部アイツが悪いんじゃない」と言っている風にもとれた。
泣きそうな色を含んだ表情。
あれは、じゃあ。
〈嫌だよね〉
〈私の声を聞いてくれてありがとう〉
〈でも勝たなきゃ。勝たなきゃ分かってもらえない。あなたには関係のないことだけれど〉
〈それでも、私と戦ってくれる?〉
「それでもそもそも勝てると思える相手じゃなきゃ組まない。どんな形であれ、アイツはお前となら勝てると思ったんだ」
何で。自身より実力の劣る自分と。
「そんなの知らん。本人に聞け」
時間だった。今日のコマが終わる。相変わらず効率的な集団はサッと散るように帰路に着く。
シャリ。
揺れる。その背中に声をかける。
自分は。
あんたと戦う。
〈学生の時から根っからのシングルスプレイヤーだ〉
自分もそうだった。手のひらサイズのラケットであれば国民的競技だとしても、テニス自体マイナーで、一人打ち合える相手がいれば幸せだった。だから。
最後に打ったストレート。二人で取った一点に今まで知り得なかった感情が生まれるのを感じた。自己満足、自己陶酔、自己肯定。そんな自分に始まって自分に終わるものではなく、誰かと協力してもぎ取る勝利。それはどんな果実にも増して甘そうに思えた。
鈴汝さんは泣きそうな色を含んだ表情で「そう」と言うと「せいぜい努力することね」と続ける。その横顔は、心なしかホッとしたように見えた。