11、五十嵐大和 混合ダブルス②
ロブ:高い弾道のボール。
「何? 何か言いたいことありそうに見えるけど」
反射的に出した空気から何か感じ取ったのだろう。タオルと水筒を手に振り返った時、五十嵐さんと目が合うとそう言われた。
今日のコマが終わって、それぞれ帰路につく。いつも通り足早に立ち去る面々。その先頭は杉田さんだった。赤妻姉妹は、最後の最後までスポットで来ただけのこの男に、全身全霊でウェルカムをアピールして帰って行った。
どうして、と思った。
〈こだわりのあるプレイヤー程〉
どうしてそんなふうに楽しくテニスのできるような人が、あんな戦い方をするのか。
自分の彼女が怪我をするかもしれない危険プレー。それは杉田さん相手だからか。
「相手の弱点を見つけたら、そこを叩くのが勝負のキホンだよねー」
突如話に割って入った小出さんは、その後「そう思わない?」とこっちを振り返る。それはその通りだ。でもそのやり方は
「気に食わなかった? 大丈夫。アイツ返すから。どんな状況でも、避けるんじゃなくて逃げるんじゃなくて、真っ直ぐボールだけを見てる。自らあのポジションにいるんだ。それも想定の範囲内だし、何より」
アイツは怪我をする可能性まで含めて、納得した上で戦ってる。
そう言うと、小出さんに向かって「だからその通り」と言った後、再びこっちに目を戻す。
「でも正しく伝わってない気がするから補足するね」
その口の左端が吊り上がる。それは自嘲とも思えるような笑い方だった。
「杉田の反応はただの本能だよ。当の本人がどうであれ、危険を感じると動かずにはいられない。初瀬は伊織を狙われる度、一歩前に出てしまうクセがある」
一本、二本。
普段の杉田さんなら追いついていた、ストレートのロブ。その届かない一歩の正体。
危ない、守らなければ。
それは確かにテニスではなく、本能による衝動。
「それって佐久間チャンだから? 誰と組んでもそうなるんじゃね?」
しれっとカマをかける小出さんは、単純に疑問に思ったことを聞いているだけで、今の所嫌悪感は抱いてなさそうに見える。
「どうだか。ああ、でも本能って言い方が悪かった。正確にはトラウマか。能動じゃなくて受動な。昔俺と似たようなプレーをする輩相手に、伊織が怪我したことがある。すぐ戻ったけど、一時的に左目が見えなくなった。アイツにはその時の恐怖がずっとついて回ってる」
アイツ、の対象が佐久間さんから杉田さんに移る。「初瀬」と「伊織」と呼ぶ男。男にとってその二人は同じ距離感を持つ存在に思えた。
「知ってるか? アイツのルーティン。ボール持ったまま左手首を二回振って、ラケットの面にボールを添える。あれは伊織が怪我をした後からやり始めた。トスを上げる手が震えずに済むように。ファーストが入りますようにって、ガットとボールで手を合わせるんだ。アイツは」
サーブを打つのが怖くてたまらない。そう言うと「ちょっと喋りすぎちゃったかな? でも幼馴染なんだ。愛想がないのは昔っから。悪いヤツじゃないから仲良くしてやって」と結んでコートを出て行った。その後ろ姿が見えなくなる頃、ようやく小出さんが口を開く。
「実は俺も相方やられてんだよね」
その目は見えなくなった後ろ姿を追ったまま。呟くように漏れた声に続いたのは自嘲。相方、というのは寺岡さんのことだろうか。
「そ。でも分かんねぇけど何か握られてる。アイツ五十嵐と試合する時だけ、マジで全く試合になんねぇの。そりゃ俺以上にふかすはかけるわ。つくづくテニスってメンタル重要なんだよねぇ」
じゃあ皆が皆五十嵐さんに夢中になる中、小出さんだけは違ったのかと思うが、それがそうでもないようで、
「いや、別に俺個人は打ちやすいし、嫌いじゃない。ただ好きでもねぇ。杉田になら抱かれてもいいけど、五十嵐はナシだ」
どさくさに紛れて何か言っているが、聞かなかったことにする。
「何にしても何か確認でもしに来たのかな。あの人忙しいから、もう来ることはないだろうけど」
オツカレー。そう言うと小出さんも帰って行った。どこまでも自由に、どこまでも軽い口調で話すものだから、重い空気にこそならないけれど、
〈実は俺も相方やられてんだよね〉
内心穏やかじゃないだろうな、と思う。
同じ「好き」を分け合った者。コート上で最も自分を知る者を傷つけられるのだ。それは、あるいは自らを傷つけられる以上の苦痛を伴うに違いない。浮かんだのは金色のピアス。
〈で、正規のペアは〉
味方を傷つけられた時に生じる怒り。その矛先は、時に本人に限らず周囲を巻き込む。容易に想像できたのは対戦相手による同じ形の攻撃。ただ純粋にこの競技を好きな彼女を傷つける可能性があった。
守らなければ。
視界がクリアに。それは自然、湧き出した思い。
それと同時に、もやもやと燻っていた黒煙が晴れるのを感じる。
「いや、今はペア解消されてるから、本人さえ良ければ問題はないが」
値踏みするように自分を見回すと、コーチは手のひらで口元を覆った。はみ出した口角。ニヤつきを隠せていない。言いながら顎をさすると「でもまた組めるかまでは分からんなぁ」と続ける。
また、というのは、対象が自分でない以上「以前は組めていたが今は組めなくなってしまった」ということなのだろう。言葉を濁すコーチは、実際どこまで把握しているのか分からない。それでも良い方に向けばいいと思ったのだろう。「鈴汝」と呼ぶと「今日は土戸が相手だ」と言った。
ありがたい。実際に組んでみて、まず互いの強み、補うべきポイントを明確にする。全てはそこからだった。デュースサイド、アドサイドどちらに入りたいか尋ねるが、当の本人は不思議そうにコーチを見上げた。
「何言ってる。シングルスだよ。コイツと戦うの」
固まる。「今日は土戸が相手」ってそういうことかよ。女は「ウィッチ」と、すぐラケットを回した。
分かってはいた。分かってはいたが、実際客観的に見られるよう数値化されてしまうと、堪え方が違った。全四ゲーム中、とれたのはたった一ゲーム。相手のサービスゲームは、結局一ゲームも取れなかった。
思い返す。
リターンから始まったゲーム。決して勢いのあるものではなく、むしろ入れることに重点を置いたサーブは、けれども回転量、深さが十分なため、高い打点で捉えてそのまま前に出ることができない。
打ってから返ってくるまでの早さ。リターンが手元に来るまできちんとスプリットステップを踏めるだけ時間に余裕を持った女は、どんなボールも鋭い打球で返してきた。フラット。分かってはいたけれど、球足が速い。風の抵抗をほとんど受けない、高さのない弾道は、バウンドすると同時に横に滑った。
左右の打ち分け。きちんと懐、同じポイントでのインパクトを繰り返すテニスは、上手い下手以上に美しく思えた。
シャリ、シャリ。
揺れる。金色のピアス。
風をはらむ袖や裾。その一つ一つの動きまでもが、力学に沿ってあるがまま。
揺れる。
こっちが渾身の力で打ったサーブ。その返球がストレートに食い込んだ。それまでいなすような返球を繰り返してたため、この女はそういうリターンから攻撃を組み立てるのだと認識した矢先のことだった。
揺れる。
再び向こうのサーブ、その一本目はノータッチのサービスエースだった。入れることに重点を置いていたはずのサーブに不意に加わった力。思えば速ければ速いほど、返球も速い。けれど緩急による選択肢を加えることで、相手のリズムを崩すことができる。事実、突然の変化に、まだ対応できていない。
次はどっちだ。
相手の出方を伺うようになってしまうのは、主導権を相手に譲り渡すと同義。そもそも上手くいっている時は、どんなボールが来ようと、来たものを返すぐらいにしか思っておらず、そこにかける思考の容量自体が少ない。だから
次はどっちだ、と思ってしまった時点で勝負は決する。身体は硬くなり、頭主導のぎこちない動きになる。普段反射でやり取りしているものを考えてやろうなんてできっこない。再び山なりの緩いサーブ。焦って気ばかり急くことで振り出しが早い。結果、前のめりの「押せない」打点になる。
思うようなテニスができない。いつもはもっとうまく打てるのに。心拍数ばかり上がって、動きはどんどん固くなる。サービスボックスの角を叩いたボールが、自分のすぐ傍を駆け抜けていく。
「純粋に下手なんじゃない?」
元も子もないことを言われてぐうの音も出ない。それにしたってもう少し言い方はないのだろうか。EDになったらどうしてくれる。
「純粋にあまりお上手ではないようにお見受けしました」
そういう意味の「言い方」ではない。何で生粋の日本人であるはずの彼女が文脈読めないんだよ。その後女はため息一つ「技術の話じゃなくて、駆け引きが。試合、組み立てたことある?」と言うと、ベンチに腰を下ろした。
「私はとにかく序盤ファーストサーブを入れるって決めてる。セカンドが続くと、相手に攻撃されること以上に、気持ち的に受け身に回ってしまうから。百パーセントじゃなくていい。とにかく相手に主導権を渡さない。こっちが組み立てるための一手段にしてる」
実際打ち出されてみないと分からない相手の打球。重心をおくべきはそこじゃない。自分で自分を律し、コントロールする力。
「このくらいの速さのボールがベースだって思ってもらうことで活きてくる武器もあるわ。同性ならまだしも、女の力なんてたかが知れてるから。今あるものを最大限数値化して戦うのが基本」
水筒、タオル、スマホ。必要なもの全てしまい終えて、バッグを肩にかけると立ち上がる。小首を傾げる仕草は挑発しているようにも見えた。
「語弊があったわね。下手じゃないわ。少なくとも私と打ち合うだけの力はある。でもあなたは自分の武器の活かし方が分かってない」
そう言うと「お疲れ様」と言ってコートを出る。
〈根っこはそれに近いわ〉
自分とするラリーは、五十嵐さんのそれに似ていると言った。
〈なるべく私と打って〉
曲線。その背中に声をかける。
自分と組んで欲しい。
伝える声が震えた。
「……すごいわね。今、このタイミングでそれ言えるの?」
一瞬驚きに見開かれた目は、そうしてすぐさま嘲笑に細まる。しかし次の瞬間、何故だかその中に少しだけ泣きそうな色を含んだ気がした。