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デュアル!  作者: 速水詩穂
19/58

10、5、杉田初瀬【25歳】

 





 目を開けると、窓から見える道沿いの桜が満開だった。夢うつつ。そんな多くの人間の門出を祝う風物詩を認める少し前、無防備な白昼夢に晒されていた。

 その、懐かしい背中。

 サーブの後、相手が返すボール。その弾道に入ったラケットの面は、いつだって場違いな、静かなインパクトをした。託された力の全てを受け入れられたボールは、まるで成仏するかのようにそっと相手のコートに落ちる。

 伊織のボレーは、全ての力を相殺する。

 たった数十センチのラケットの動きで、いなす。諭す。和らげる。衝撃を吸収することを売りにするクッションのデモのために、高所から卵を落としてみたりするが、伊織はラケットでそれをやってのける。それ程までに有無を言わさない。

 しなる背中。ボレーの基本は姿勢を崩さないこと。どんなボールが相手でも、ボールに合わせるのではなく、自分に合わせさせる。いつだったかボレーのコツを聞いた時、伊織は言った。

〈とにかく待つの。ギリッギリまで待って、ここまで来たら打ってやるってカンジ〉

 その伊織らしい解答。あくせく走り回る後衛に、一発で黙らせる前衛。伊織こそ前衛に相応しいプレイヤーだった。

 無邪気にラリーを楽しむ一方で、試合になると完全に切り捨てる。ペアとしてテニスと結婚することを誓わされかけていた俺は、あの頃そんな二面性さえ魅力のひとつにカウントしていた。

 伊織の怪我を機に、付き合いきれないとテニスを離れた。それまで中央を占めていた要素の喪失は、想像以上に堪えた。伊織のことはまだしも、伊織抜きでも自分はテニスが好きなのだと痛感する。ただ、ここで考えなしにコートに戻れば、その残像に苦しむことになるのは分かっていた。だったら冷却期間を経て、再びこの競技と向き合う方が誠実だった。

 誠実。

 この競技に対して誠実であろうとすること。それは

 真剣に好いていることの裏返し、その向こうに結婚という文字が見えた気がした。そうして歳月は流れた。


「よお」

 今日のコマが終わった所だった。二十五歳夏の夜、多少輪郭がふっくらしたかのように見える幼馴染は、けれども当時のままの表情をして手を上げた。テニススクールという形で基礎から学び直し始めた時のことだった。

 最初、白シャツにスラックスといういでたちの男が、フロントを抜けた先のラウンジから現れた時、ここの支配人かと思った。だからまさかよく知った顔だとは思いもしなかった。

 蛍光灯の光を十二分に弾いてまぶしい革靴。五十嵐とは実に七年ぶりの再会だった。

「ああ」

 言いながら、しかし素直に喜べなかったのは、最後が最後だったこと、内緒で伊織と付き合っていたこと、それに自分がここに通っていることをどうやって知ったのだろうという不信の重なったせい。

 そんな思いを感じ取った五十嵐は「伊織に聞いた」と事もなげに言うと「あいつもまたテニスしたいってここに見学に来た時、偶然見かけたんだと。相変わらず目立つからなぁお前。見間違えようがない」と口の端を吊り上げた。

 伊織。

 完全に浄化した存在だ。もう関わる事もない。

 そう思った途端、このやりとり自体、全く意味のないものに変わる。

「元気そうだな」

 言いながらその傍を通り抜けて外に向かうが、すかさず五十嵐がついて来た。

「何だよ冷たいなぁ。俺もまたテニスしよっかなーと思って。お前この時間なんだな。どうせなら一緒にやろうぜ」

 瞬時に沸いた嫌悪感。乱暴に投げ込まれた水底で泥が舞う。見たくないものがかすめる。

「今、基礎から学び直している。打ちたいなら他のクラスの方がいい」

 足を止める事なくそう言うと、自動ドアをくぐる。コンクリートの石段。革靴が耳障りな音を立てながらついてくる。

「それこそ俺も、でしょ? 七年ブランクよ? もう基礎も何もあったもんじゃねぇ。ガットいくつで張ってたかも覚えてねぇし」

 次々投げ込まれる石。浮かぶ泥。視界が真っ黒になる。かすめるは刹那、やわ肌。

「なぁ」

「やめろよ」

 思うより他、強い音が響いた。その声のトーンが不満げなものに変わる。

「何怒ってんだよ。また仲良くやろうぜって言ってるのに」

〈はっちゃん、私大和と付き合ってるの〉

 やまぴーじゃなくてやまと。その公的に通じる呼び名に、自立した二人の姿を見出した。あの時俺は、俺だけが子供のまま、またとない裏切りを受けたのだ。それを

「笑わせるな。お互いいい大人だろう。テニスがしたいなら勝手にやってくれ」

 そう言い残して、車のドアを閉める。窓越し、腰をかがめた五十嵐が「またな」と言った。

 走り出すと小さな雨粒が窓を濡らした。ワイパーで一掃する。気づくとハンドルを叩いていた。

 好きなものを愛でたい、ただそれだけのことを、頼むから奪わないでくれよ。


 今のは絶対入ってた。それは今まで打ってきた感覚が自信を持って叫ぶ。けれどセルフジャッジである以上、相手がアウトとコールすればアウトなのだ。下手なしこりを残したまま戦えば、その後の展開に支障が出る。三度深呼吸を繰り返すと、再びリターンのポジションにつく。

 結局五十嵐は俺と同じクラスに入校した。そのことに嫌気がさして、改めて得た技術とともに別クラスに移ると、ヤツもまたついて来た。どうして自分のクラスがバレているのかフロントに確認した所「知り合いの方ですよね」と返された。それだと誰が相手でも個人情報がダダ漏れだ。その旨を伝えると「異性間の関係では答えないようにしている」と逆に胸を張られた。これ以上話しても無駄だった。いずれにしても、

 今問題なのはヤツが同じクラスにいること。元々人と距離を詰めるのが得意な五十嵐は、一度通っただけでクラスメイト全員の名前を覚え、その後打球の特徴を覚え、その人に合わせたテニスをし始めた。

 人は、自分のことを好きにさせてくれる人を好きになる、という俗説。及び真理。

 誰しも自分のテニスをしに来た集団。気持ちよく打たせてもらえるクラスメイトは気を良くし、口に出さずとも五十嵐に親近感を抱くようになった。

 自分の大切にしたいものを内側から侵食される。じわじわと水溜りが広がっていくかのようにその輪郭が見えなくなっていく。それはひた歩み寄る影。

「幼馴染なんだ」

 ポン、と肩を叩かれる。

「愛想がないのは昔っから。悪いヤツじゃないから仲良くしてやって」

 影。ウソだ。

 コイツは俺を影にしようとしている。

〈どうせいつかはやることだ〉

 その目つきが変わった時のことを思い出す。

 あの時、伊織は確かに聞いた。俺たちのどちらが強いのかと。思い返してみれば、その時たまたまコートにいて、手元にラケットがあっただけで、何で勝負するかは言っていない。そうして何かは分からない。けれど五十嵐にとっての勝負はまだ続いているのではないか。そんな憶測にざわめく。

 クラスメイトが笑った。怖気が走った。









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