10、5、杉田初瀬【18歳】
腹の底からイカれてると思った。
幼馴染で、何でも知ってると思っていた相手から出た宣言。それは何かの分野でてっぺんを極める類とはまた別のようで。
薄く長いまつ毛。こぼれ落ちそうな大きな目が爛々と輝いている。興味があるもの、好きなものを見る時開くという瞳孔。なるほどそういう意味ではこうして言っていること自体、間違ってはいないのだろう。
すなわちウソはついていない。真実、真心。それが分かったからこそ、純粋にイカれてると判断した。
〈私ね、この競技と結婚する〉
そもそも事の発端は十年遡る。自分には佐久間伊織と五十嵐大和という同学年の幼馴染がいた。親同士仲が良く、まだ小学校に上がる前、連れ立って出かけたことがあった。そこで見たのが混合ダブルスと呼ばれる男女ペアで行われる競技テニスだった。だからスポーツといえば、俺たちにとってサッカーより野球よりまずテニスだった。
サーブ。打ち返す。女性の短いスカートが横一直線になって回る。大きな身体の男性がラケットを伸ばす。それはまるで大きな手のひらでキャッチするような動作。
好き勝手行き交うボール。そのたった一つの小さな球体のために大人四人が駆け回る。その光景はどんなおもちゃで遊ぶことより刺激的で、気づくと見入っていた。それは必ずしも自分だけではなかったようで、
「すごぉい」
隣にいた伊織もそう呟いた。その向こうにいる大和は「ふぅん」とポールの柵に肘をついていた。
結局一番にラケットを買ってもらったのは伊織だった。野郎に囲まれて既にお姫様だった伊織が「テニスがしたい」と言えば、その通りになった。実際自分も面白そうだと思っていたし、そこに疑問はなかった。休日には親に連れられてテニスコートに向かい、ボールが見えなくなるまで打ち合った。
そうして家族で連れ立ってテニスコートに向かうことも無くなって数年、あれは中高一貫校の卒業式間近のことだった。
「はっちゃんとやまぴーはどっちが強いの?」
伊織の何気ない一言は、それまでうやむやにしてきた問題を目の前に提示した。それぞれ別の相手とペアを組み、それぞれ結果を残してきた。だから直接対決する機会はなかったが、その一方、心のどこかでそれを望んでいなかったというのもある。何となくだが察していた。
お互い伊織のことが好きなんだろうな、と。
だから勝負の結果が、そこに大きく影響することが分かっていた。分かっていたからこそ、あえて触れないようにしていた。
大和は大事な友人だ。だから
「杉田」
顔を上げる。その時初めて、大和は俺のことを「初瀬」ではなく「杉田」と呼んだ。
「どうせいつかはやることだ」
それはテニスに限った話ではないように聞こえた。いつかはぶつかる問題。だったら早めに決着をつけようぜ。
動けなかった俺に代わって五十嵐が切り出してくれた。せめてその行動に報いようと頷くと、途端その目つきが変わった。
思い出す。いつだってそうだった。普段どうでもいいという顔をしている大和が「やる」と決めたら徹底的にやり抜くこと。そこに情は入らない。「それ」はたった今、正式に俺を敵と認識した証。
後に支える予定はない。時間無制限。
ワンセットマッチ。それぞれ制服を着替えた後、中央のネットを張ると、定位置につく。審判台には伊織が上がった。
例の「腹の底からイカれてると思った」宣言の二時間前の出来事だった。
「私ね、この競技と結婚する」
趣味趣向、フェチ性癖、なんでもいい。形あるものを愛でる者もいれば、逆もまた然り。男女間に生じる想いのやり取りも、逆算すれば子孫繁栄。結局どの生物も等しく持つ本能に紐付いているに過ぎない。そういう意味では、そこに執着しないその他趣味趣向、フェチ性癖の方が、かえって高尚なものに思えてくる。思えてはくるが。
「もう少し詳しく、俺にも分かるように噛み砕いて話してくれないか」
「噛み砕くも何もそのままだよ。私はテニスと結婚する」
ゲームカウント七―五。タイブレークに持ち込まれる前に無理矢理もぎ取った勝利。五十嵐は一足先にコートを去った。これで告白する権利を得たと思った矢先のことだった。
今の今まで全力疾走して、ただでさえ酸欠状態の使い物にならない脳みそが、ペニス、と誤変換を起こす。目の前でキラキラしている目を、ただ美しいものだけを美しいと愛でてきたようなその笑顔を、いっそのこと全力で捻じ伏せたくなる。
「この身体が動く限り、ラケットと共に駆け、いつの日も真摯に相手に相手と対峙し、時にコミュニケーションを楽しみ、時に尋常に勝負し、健やかなるときも病めるときも、この場所と共に生き、この白帯の内側で生を全うすることを、誓うわ」
ダメだ。何を言っているのか全く分からない。キラキラした目は変わらずキラキラしたまま。結局は妄想も俺の中で終始する。そもそも
「誓うって……俺に誓ったって仕方ないだろう」
「何で? はっちゃんにこそ誓うんだよ」
圧倒的に置いていかれている俺に、何で分かんないの? と追い打ちをかけるこの女は天性のドSかもしれない。こういうのは無自覚が一番ヤバい。
「だからはっちゃんも一緒に誓って」
「は?」
一体全体その「だから」がどこから続いているのか分からない。決まった宗教を持たない俺は豚肉を食うし、一日何度も祈ったりしない。ましてや婚姻に縛りを受ける謂われなどないのだから、その願いも受け入れる必要はない。
ただ俺にとって厄介なのは、その相手がこの女というただの一点だった。伊織は何の疑いもしない。姫である自分の言い出した事は当然受け入れられ、当然そうなるものとして俺に訴える。
「混合ダブルス、私と組んで」
お願い、と続けるその目は、未就学児だったあの時見た目で、あの時から変わらない伊織そのものだった。全力疾走の末、ただでさえ酸欠状態の使い物にならない脳みそが、たった今本当に使い物にならなくなったものに、今もまだ律儀に血液を送り続けている。
閻魔様にだってもう少し慈悲の心はあると思う。俺は一体前世でどんな失態を犯したんだろう。
五十嵐と伊織が付き合っていると知ったのは、その直後のことだった。