9、赤妻紅葉 シングルス
「土戸くんのボールは、打ったままが返ってくるから打ちやすい。だからなるべく私と打ってって言ったの。それが最もイージーで基礎練習になるから」
そうしてさっさとコートに戻る金色のピアス。
時は九月。熱帯夜を何とか越える頃、約一ヵ月の修正期間を挟んで、たった三ヶ月とはいえ元いたクラスに戻ってくると、さすが独立した個々だけある。元よりあたたかい出迎えを期待した訳ではないが、それにしたって、何というか、もうちょっと。
「あれ、戻ってきたの? もう来ないかと思った」
ラケットを担ぎながら小出さんも言う。というか、この人に言われたくない。この人にこそ言われたくない。その向こうを杉田さんが通る。
でも冷静になってみれば、そもそもたった三ヶ月いただけでメンバーとしてカウントされていること自体おかしいのであって、いかにこのクラスの定着率が低いか改めて思い知らされる。それはコーチも気にしているようで「新入りか? このクラスはちょっとレベル高いぞ」と声をかけられた。その様子は心底うれしそうだった。
ちょっとどころかだいぶレベルの高い個々は、いつも通りコーチが指示するより先に定位置に着くと練習を始める。早いやりとりのショートストローク。「アップだからゆっくり」という声を誰一人聞かないラリー。絶対続ける気のないボレー&ストローク。
時間の流れが異常に早いのは、心拍数の上昇がため。あっという間にサーブ練習に入る。打ち方ごとに気をつけるポイントなんて、通訳ばりに反射で体現できるようにしなければ、ただただ濁流に押し流されてしまう。
ぶつぶつ言いながらボールを掴むと、ちょうど同じようにボールを取りに来た寺岡さんと目が合った。
「ラケット替えた?」
声のかけ方、イントネーション。感覚的な印象として、プラスの意思を感じる。何でもない一声から受け取る温度。それは実の所、一見冷たく思える小出さんやあの女や杉田さんの空気からも感じるものだった。完全なよそ者ではなく、何となく知っている顔。それは「仲間と称するには遠いけれど、赤の他人にしては近い」そんなよく分からない距離感だった。
「土戸」
その後、サーブが終わって水分補給していると、コーチに呼ばれて顔を上げる。
「今日は女子高生の相手をしてくれるか?」
その向こう。いつかスマッシュ練習の時、自分の後ろで舌打ちせんばかりの殺気を放っていた、あの
「紅葉、今日はこのお兄さんが相手だ」
自前かパーマか分からない、その全てが違う方向を向いた、真っ黒な短い毛先。その間から覗いた目は、不満の色を隠さない。確かにフォルムこそ女子に分類されるが、それにしても世間一般が期待するような輝きを内蔵した「女子高生」とは一線を画す。彼女は全く別方向にベクトルの振れた生き物だった。
「何でこのおっさん」
おっ、さ、ん。
まだ二十四だと言おうとしたが、十七、八の子からすれば充分おっさんなのだろう。問答無用で突っ込まれたカテゴリに、少々どころかかなりのダメージを受けた状態で始まったやり取り。
「今から二人にはシングルスをやってもらう。サーブは紅葉からな」
赤妻紅葉。高三。身長百五十五センチそこそこ。全体的に華奢で、聞かなければ中学生でも通りそうな体型をしている。非常に高いトスを上げるが、一ゲーム終わった段階で、上げ直しゼロ。ファースト成功率が高い。何より。
「……っ!」
フォアバック両刀、全く遜色のないフルスイング。加えて前に出ようとすると、針の穴を通すようなロブを上げられた。その精度の高さ。
普段双子の姉にあたる一葉とダブルスを組んでいる時は、失敗を恐れて思うようなテニスができないイメージがあったが、こと誰に気兼ねすることもないと、まるで鎖から解き放たれた獣のような動きをした。
自分自身、さすがにサービスゲームこそキープしたが、それも最後の最後にはファーストを完璧に返されていたため、相手のサービスゲームで時間切れになって内心ほっとする。一方、赤妻妹の方からすると、最後のゲームが取れずに終わったのがよほど不服だったのか、挨拶とともにさっさと帰ってしまった。
「どうだった?」
コーチはニヤニヤしながら試合球を専用の缶にしまうと、カートに乗せた。
どうも何も、高校生にしては肝が座り過ぎてやしないかと思う。年上の野郎相手に、いや逆に立場が違うからこそ、一切の気負いなく打てるのだろうか。
「甘えてるって? それはないだろう。アイツ、本気でお前を食いに来てた」
間違いなく。そう言うと、しぶしぶ相槌を打つ自分に今更の情報を与えた。
「二〇十四年七月、女子シングルス西部地区大会優勝者。ネットで検索かければ見知った名前に遭遇するかもな」
目を見開く。地区大会の優勝者。双子であれば姉も出ているはずの。
「まぁ向き不向き、得て不得手はあるわな。ちなみに同大会、ダブルスの部優勝者は『赤妻』が二人並んだペアらしい」
どこまでふざけてる。そんな実力者が、だからなんで初級に。
「仕方ないじゃないか。残っちゃったんだから」
ちょっとレベル高めの集団。自分より身体の大きく、力の強い熟練集団とともにプレイする。それは身近で一番をとってしまった未成年にとって、伸び盛りの思いを満たす。有り余るエネルギー、そのよく鍛えられた足の動きを止めずに済む。
何度でも言うが、ここは初級だ。けれど「来るもの拒まず去るもの追わず」その結果が、コーチの望むものにマッチしているかは別として、今集団として成り立っているこのクラスは。
「……ようやく理解できたか」
だから狂ってる。そぐわない。見合わない。もう一度「初級」という単語の持つ意味から学び直した方がいい。それでも。
うなずく。理解する。自分はきっと、第三者から見れば同じ初級でも基礎から学ぶクラスから始めるべきだったのだろう。感覚を辿り、感覚にすがり、感覚のみで完結し、ただ打ちたいボールだけを打ちたいように打つだけなら。それでもきっと、一から始めていたら途中で飽きてやめていたと思う。飽きとは何か。刺激のなさ。安泰。つまりは退屈。ノートに一つ一つ正しいことを記して、積み重ねて、どうなりたいという目標もなく、ただ漠然と。得られるのはいつまで経っても打球感のみ。それなりの自己実現、己だけを指標として。
理解する。自分はラッキーだった。初めて来た時に見たもの。
〈自分の方が上手いって思った?〉
バカ言え。
息をするように振り下ろしたラケット。自然の摂理に逆らわないスマッシュ。思えばあれがあったから。あれを見たから、今自分はここにいる。それぞれの武器を黙々と研磨し続ける集団に憧れて、自分もそうなりたくて、打ちのめされてもまたここに戻ってきた。仕事でも義務でもない、ただの趣味のために。
ただの趣味のために、毎日のように録画しておいたウィンブルドンの試合を見て、ボールの音を耳の奥に残したまま眠りにつくようになった。たかが趣味のために。それがなんと幸福なことか。
理解する。なりたい自分なんてなかった。それでも誰かのワンプレーをかっこいいと思って、自分にもできるかと夢見て、なりたい自分になるための努力をする。そうして自分で目標設定ができたから、手を伸ばしたとき与えられた知識だったから、すんなりと身に付いた。ただ与えられるだけだったら、気づかずまたスルーしていた。ちゃんと受け取って初めて変わる自分。その証こそ、ナイターの照明を受けて輝く、相方であるラケットだった。