5、鈴汝雅 スマッシュ
サッカー、バレー、野球、卓球。何の競技でも変わらないと思う。一番気持ちいいのは、全身の動きが噛み合って、全力を乗せたショットが決まった時。そういう意味では寺岡さんのようなストローカーの放つレーザービームもそうだけれど、それ以上に
「ナイショー」
浮き球に照準を合わせ打ち出す縦のスイング、スマッシュはこの競技において最もテンションを上げるショットだった。浮き球からの急加速。それはバレーのようにシャットアウトされることなく、ただ純粋に加えられた分の力でコートを切り裂くため、見ている側としても気持ちがいい。しかしそんな打球は、
「……!」
実はとても難しい。
汗が落ちる。一球交代。次々と打ち出される浮き球に合わせて打って走って打って走って。そんな練習は、だからきちんと波に乗れないと大惨事を起こしかねない。ネットにひっかけでもすれば次の人の足元にボールが残って危険だし、だからと言ってボールを避けようとするとスイングの邪魔になる。とにかくネットにかけることだけは避けなければいけない。そう思えば思う程、打つボール打つボールがネットにかかっていく。いい加減波に乗れない後ろの女子高生の舌打ちが聞こえた時、スマッシュの練習が終わった。
テニスは好きでやっている。でも昔から上から打ち出す類のショットはどうも苦手だった。ストロークのようにうまく噛み合わない。ボールがどこに来た時点で、どんな体勢でいて、いつ振り降ろすのか。見上げた先、夜空をバックに距離感がつかめない。
ボールを拾い集めていると、近くでシャリ、という音がした。
〈今、彼氏はいないらしいよ。何でも去年別れたとか〉
揺れる金色のピアス。横髪を留めた同じ色のピン。首筋の露わな短髪に、野郎にはない曲線。初めて見た時、息を呑むような美人だと思ったことを思い出す。そのせいで尚更
〈学生ん時からだから十年とか? かなり長く付き合ってたらしいけどね〉
そんな話を聞いた後、改めて見ると痛々しい。見た所年上。ということは二十代後半。短かく刈ったような髪。どう考えても寂しさを紛らわすための一手段としてここに立っているように見えた。女はガット一杯にボールを乗せて戻って行く。
シャリ、シャリ。その音がやけに耳に残る。あぁそうか。
スマッシュはリズムを取る。ラケットを担いで振り上げ、インパクト。イチ、ニ、サン。そのリズムはきっちり等感覚。そのピアスが刻む音。
イチ、ニ、サン。無理な力が入らない。決められた動きを決められたポイントでする。この女のスマッシュは、初めて見た時同様、どこにも偏ることなく、ただ自然の摂理に基づいた軌道をたどる。例えるなら公転。それは一定の重力、引力の影響受けながら、完全に釣り合った状態で巡る天体。
シャリ、シャリ。
大きく旋回する肩。緩急。しなやかに風を切る。額の延長線上でのインパクト。ガットの中心でとらえる音。
シャリ、シャリ。
上がり切らない顎。ぶれない重心。伸ばした左手は天を指差す。緩急。しなやかに風を切る。インパクト。完璧に合わせたボールはベースラインギリギリにバウンドする。
シャリ、シャリ。
女でありながら、女の力とは思えないスピードで繰り出され続けるスマッシュ。その横顔は凛々しい。
〈何でも去年別れたとか〉
ふと、もしかしたら別れを切り出したのはこの女の方からだったんじゃないかと思う。まっすぐ浮いたボールをインパクトの瞬間まで見つめて叩き落とす。乱れることのないリズムは一切の情を含まない。その姿は、あるいは彼女達の間に生じた問題に対する彼女なりの答えにも見えた。
改めて見上げるのは、寺岡さんや小出さんを含む、なんちゃって初級のモンスター相手に全く動じないこと。モンスター側も全く手加減する気配がないこと。珍しく早い時間から現れた女は、長々とストレートのストロークを続けている。フォアバック共に両手打ち。無駄な力の入らない、ただ物理の法則に則ったスイングを繰り返すその姿は、もはや猛獣使いだった。打球音。平らに見えるガットは今日もよくしなっているのだろう。
他の競技と違い、テニスの男女で成り立つ理由の一つは、そのしなる力を調整することによって、女性でも相応の力が得られるためだ。一般にガットを強く張ればボールは飛びにくくなるがコントロールしやすくなる。逆に緩く張ればコントロールこそしにくくなるが、非力でもボールは飛ぶ。だから自分に合ったガットや張りの強さを見つけられれば、理屈の上では誰とでも対等に打ち合うことができる。
「っしゃあ!」
「……!」
しかしそれはあくまで理論上の話。小出さんの打ち出したボールはこっちのラケットを弾くとコートを囲うフェンスにぶつかった。
スピード、回転量。打ち分けられる様々な球種に、人は一秒にも満たない速度で対応しているという。振り遅れれば手打ちになるし、焦って打点がずれれば、その分コントロール、回転量を失う。小出さんをもってして「退屈なクセになげぇラリー」というのは、実際、一球一球凄まじい量の情報のやりとり。
人がずっと同じでないように、同じ速度で成長する者だけがずっと隣合う。同じだけの繊細な技術を持ち合わせているが故の、その人達だけが重ね続けることのできるやりとり。それはなるほど、ただの王族の遊びのようだった。
「土戸くん」
ネットを挟んで対面、交代で入るストレートラリー。打ち終わった直後に呼ばれて振り返ると、女がコートに入っていた、まだ打っていない相手が自分だけだったんだろう。慌てて入ると打ち出されたボールを返す。皆同じという訳ではないが、来たボールを返す、という事だけ取り上げたら、別に相手は誰でも構わないし、別に全員と打たなければいけないという制限も設けられていない。けれど彼女には彼女なりの考えがあるのだろう。きっちり全員ときっちり同じ回数。捉え方は人それぞれだが、その感覚は自分にとっていささか窮屈に思えた。
いわゆるフラット。女の打球は何の変哲もないテンプレの弾道を描く。同性に比べてバウンド後の伸びは短く、その分弾足は早い。左右に振られると相応の足を要するそれも、半面と決められたラリーでなら肩への負荷も少なく、比較的継続しやすい類のものだった。
パァン、トッ、パァン。
リズムを刻む。振り子運動。それは彼女のスマッシュのスイング同様、等間隔で打たれる句読点。
パァン、トッ、パァン。
終わらない。丸がつかなければ切れない一文の如く、ただ点だけが連なっていく。一定の動きを繰り返す機械。寺岡さんのストロークを思い出す。
パァン、トッ、パァン。
〈あいつらのラリー、退屈なクセになげぇからな〉
パァン、トッ、パァン。
女がスイング動作に入る。それは今まで繰り返していた通り、何の変哲もないストローク。しかしインパクト直前、ラケットヘッドが急加速する。
半面で区切られたエリアでのやり取りであることに加えて、ベースラインギリギリを狙った打球。だから速ささえ知っていれば対応できない類のものではない。取り急ぎ完全に振り遅れてネットにかけたのが一球目。このやり取りはまだ始まったばかりだった。
「土戸くん」
それからというもの、女は判を押したように自分を呼ぶようになった。この世で最も嫌いな人種は「仲間に入れようと無理強いするナルシスト」いくら歴が浅かろうと自分自身勝手に馴染むし、放っておいて欲しかった。そもそもコートの反対側まで届く声だ。隣のコートの人間からも見られる。女が男を呼ぶこと自体、悪目立ちでしかないのだから、重ねて勘弁して欲しかった。
極力関わりを持ちたくなく、距離を置くようにしてベンチの端に座ると、女が「クセ? わざと?」と聞いてきた。何のことか分からない上、面倒くさそうなやりとりの空気を察して平常運転とだけ告げると、女は腕組みをして片手を口元に添えた。腕に乗って、その胸の輪郭が露わになる。ワンチャンでよければまぁまぁ「アリ」だった。別れてご無沙汰と言えば尚更、案外簡単にイケるかもしれない。
手を抜いているようにでも見えたのかと思うが、すぐさま「違う」と否定された。ハナからこっちにそんな余裕は無い訳だけれど、それにしてもだったら何だという話ではある。休憩を終えてコートに戻ろうとすると、再び声をかけられた。
「もしこだわりがなければ、なるべく私と打って」
本当に案外イケちゃうかもしれない予感に、ぴょんと下半身が返事をするかのようだった。




