4、小出優陽 ボレー
スプリットステップ:相手が打った瞬間にジャンプする動きのこと。ボールに素早く対応するための予備動作。
ノーバン:ノーバウンド。
ライジング:バウンドして最高点に達する前に打つショット。
ルキシロン:ポリガット。めっちゃ堅い。
いい加減メーカーとか商品名ぼかした方がいいかなと思ってはいる。
ドロップショット:ネットスレスレに落とすショット。
FIFAワールドカップが始まった。ブラジルで開催される、今回の大会スローガンは「All in one rhythm(全てを一つのリズムに)」最近よく聞く曲は「NIPPON」というタイトルだという。
競技を別の競技で例えるのもどうかと思うが、時に本体よりも例えた側の競技の方がしっくり来ることがある。
物静かな学生に加えて大人のテニス。基本的にそれぞれ自分の世界にどっぷり浸かり、聞こえるのは打球音にバウンド音。集中、と言えばそうに違いないが、無音以上に真空。何をかよく分からない、密度の濃いものが圧縮されている。
切り取ったこの空間。通常呼吸した分だけ衰えていく肉体は、この一時間半に限って、その酸素交換量、数値化し得るもの全てを凌駕する。緊張感、と言えばそうに違いないが、伴うのはどたどたと足音を立てるような拍動ではない。もっとずっと静かで、深海で息づくような、そう、クジラの呼吸音のような、圧倒的な何か。それが身体の芯で深く脈打ち続けている。
確かで、絶対の有。それはズ、ズ、ズと足元に忍び寄る。飲まれないように身体を動かす。ラケットを大きく振る。怯えて振り切れなくなったが最後、全てが歪む。楽しげに弾むボール。そんな気まぐれに付き合うつもりはない。張り詰めた空気。そんな不気味な静けさの中、分かりやすく眩い光を放つ者。圧倒的な陽。そうして唯一音を発する者。
競技を別の競技で例えるのもどうかと思うが、その男がしているのは、テニスというよりはダンスだった。
「っしゃあ!」
その背中の中心、真っ赤なウェアを縦に割るようにできる影。ギュッと寄った肩甲骨は、開かれた胸との境に絶妙なバランスをとる。頭頂部に向かって刈り上げたモヒカン。よく焼けた肌。肉付きのいい上半身は撫で肩で、異様に首が長い。
跳ねたボールに合わせて跳ぶ。「それ」は「打点がブレないよう、しっかり地に足をつけて打つスタンダード」の対極。さながらラテン。男はそのリズムと感性で打っているようだった。早いテンポに相手が勝手にリズムを崩す。ペースに乗せられてしまえば勝ち目はないように見えた。交代でラリーに入ると、男はその場に残った。まだ打っていない相手が自分だけだったのだろう。
ボールを打ち出す。向こうからの返球。引きが小さい。そのラケットヘッドが素早く動く。それでもしっかり摩擦を加えられたボールは、早々戻ってくる。それは前に出たいがための一手。
思った通り、男は前方に躍り出ると、サービスライン上でスプリットステップを踏んだ。ベースラインでの打ち合いを想定して打ち出したボールが、ノーバンで弾き返される。バックハンドのボレー。それはさっきも見た動き。その形の美しいこと。腕を引いているのか、胸を開いているのか分からない。弓なり。とにかく上半身が綺麗にしなる。そうして
スライスの回転をかけられたボールは、滑るように自分の足元に沈むと、振り遅れたラケットをはじいて、相手コートのベースラインを大きく割った。
二球目。まずはその足を止めることに注力する。
打ち出すと同時に腰を落とす。相手が出ると同時に、その足元に打ち込むためだ。案の定返球と同時に駆け出す。その足元目掛けて打ち込むと、男は身体を浮かせてボールを掬い上げた。何の事ない、それはただの回避。ステップを踏んだ先にあった障害物を避けただけ。それでもその精度の高いライジングは、インパクトの瞬間まで視線を外すことなく、まぐれによる返球ではない事を裏付けた。
早い。逆にこっちの足元に打ち込まれる。無理矢理振ったラケットから放たれたボールは、ネットにかかると手前に転がった。
三球目。ロブがある事を印象付けるため、わざと高めの弾道で打ち出す。すると通常より高いバウンドをするボールに合わせるため、男はベースラインにとどまった。なるほど、これは有効と見て、再び高い弾道で返すと、今度はバウンドする前に打ち返してきた。それと同時に前に出る。
ラリーは基本、一本目はワンバウンドでラリーの形式を整える。礼儀作法というか、ラリーのための陣形をとっている以上、ボレーをしたくても一本目はワンバウンドしたボールを返す。故に一本目以外は何をしてもいい。このルール自体、ラリーだけにとどまらず、形式練習でも適用される。そう。
一本目のみに適用される縛り。それさえ解ければ、あとは自由なのだ。
自由、という言葉のよく似合う、踊るようにラリーをする男。その白い歯が見えた。
「ハイ、これでおしまい」
ドーン、と言いながら繰り出されたハイボレーが自陣のベースラインを削った。
「今彼氏はいないらしいよ。何でも去年別れたとか」
梅雨の合間、純粋な汗だけでなく、高い湿度がべっとりと首元を覆っていた。
聞いてもいないのに話してきたラテン男は、どうやら身体だけではなく口も軽いらしい。顎から落ちる汗をそのまま、二リットルのペットボトルを傾ける。その喉仏が、一人合点するかのように大きく二度三度上下した。
「学生ん時からだから十年とか? かなり長く付き合ってたらしいけどね」
言いながら向き直るコートには、最後、寺岡さんとラリーを続けるあの女がいた。男はベンチに腰を下ろすと「コイツらのラリー、退屈なクセになげぇからな」とラケットの面をかざす。
「……ああ、コイツももうダメかも。やな予感しかしねぇ」
何のことかと思って聞いてみると、一言「ガット」と返された。網目を直したそれがバキ、と音を立てる。
「土曜に張り替えたばっかなんだけどなぁ。なんだってこう軟弱なんだよ。これでもちゃんと選んでるつもりなんだけどなぁ」
何のガットを使っているのか聞いたら「ルキシロン」と返ってきた。
ギョッとする。言いながらバキバキガットを鳴らし続けるその姿をまじまじと見つめる。
ガットにはナイロンとポリエステルがあり、そもそもラケットで打ってボールが飛ぶ原理は、ガットに引っかけて弾くためだ。だから平に見えるガットはトランポリンのごとくしなっていて、故に一般的な競技者は柔軟性のあるナイロンを使用する。硬い素材であるポリエステルは、種類こそあるが、基本この原理による影響を極力抑えたもの。弾く力に頼らない、ただの筋力。イコール基本男性競技者向けだ。そしてルキシロンと呼ばれるガットの性質もまたポリエステル。しかしいくら基本の球種がゴリゴリのトップスピンだからと言っても、それを
先週の土曜? ってことはまだ五日。
ようやく終わったラリーからサーブ練習に切り替わっていの一番、コート一帯にバチンと何かが弾ける音がした。その後続く「あああやっぱり!」という一人賑やかな男の声。
競技者向けのガット、ルキシロンを五日で切る男。
マジかよ、と呟く。
だからおかしいって。ここ初級だろ。
サーブを打ち終えると、最終ゲームに移る。
ガットが切れるのが日常茶飯事の男は、セカンドラケットを取り出すと、眉間に皺を寄せたままその面をはじいた。その様子からは「これが切れたら今日はもう打てない」そんな葛藤が見て取れる。
今回のペアは寺岡さんとラテン男。磐石な基盤を得た自由人は、水を得た魚のごとく、コート前面を縦横無尽に跳ね回る。職人によって返球コースを制限されたボールは、面白いほどに男に集う。ボレーにスマッシュ、柄にもないドロップショットまで飛び出すのだから、ノリにノっていた。
そうしてゲームカウント三―〇。一方的な試合展開に、隣でコーチが「決まったな」とつぶやいた所だった。次はラテン男のサーブ。男にボールを渡して振り返った寺岡さんの動きが、しかし一瞬止まった。明らかな動揺。その視線を追った先。交互に跳ねるようにして現れたのは、三歳くらいの女の子二人。お揃いのピンクのワンピースをひらひらさせて、金網の向こうを駆けてくる。
「パパー」
「パパー」
愛らしい声に反応して、ネットを挟んで反対側に立つ女性も振り返る。思わずほころんだその頬。しかし元に戻った時には鋭く目が光った。
一方「パパ」と呼ばれたラテン男は相好を崩して手を振った。サーブを控える「パパ」の隣で、額に手を添えたのは寺岡さん。
「ゲームカウント三―〇」
そうしてコールと同時にトスを上げると、ラテン男はゴリゴリのスピンサーブを相手コートに打ち込
ポン。
一瞬消えたボール。
違う。繰り出されるボールの速さに合わせて動いた視線が空を切ったのだ。するはずの打球音が聞こえなかったのだから、ボールがそこに現れるはずないのだけれど。
ベースラインに目を戻すと、ファーストサーブを思いっきり空振りしたラテン男が「セカンドォ!」と叫んでいた。足元に落下したはずのボールは既に後ろに蹴りやられている。一種の証拠隠滅。全然隠滅できてないけど。
その後、セカンドサーブもガットに上手くかからずダブルフォルトになり、隣にいた寺岡さんと左右位置を入れ替える。その背中の丸いこと。自分の隣、コーチから聞こえてきたため息。
「お疲れ様。この試合もう決まったから、見なくていいよ」
そうしてコーチは学生ペアに今日の修正、課題の話を始めた。
その後も「ああ!」とか「ちきしょう!」とか、元々うるさかった以上に無駄な発声が続くと、あっという間に一ゲームが終わる。スマッシュを二本連続で空振った辺りから、男は寺岡さんとまともに目を合わせられていない。
その後コートチェンジを挟むと、女の子二人の後ろにすらりと背の高い女性が現れた。近くにいる保護者との等身比のおかしさに遠近感が狂う。女性は娘二人の後ろで腕を組むと、何を言う訳でもなく夫の背中を見つめた。その姿を見るまでもなく認識した男は、今度はものすごい勢いでネットにボールをかけ始めた。
サーブ、リターン、ネット。サーブ、リターン、ストローク、ネット。サーブ、リターン、ボレー、ネット。もはや全部に磁石がついているかのような勢いで、打ち出されたボールがネットに衝突を繰り返す。そうして
プレイどうこうではなく、男の様子がおかしいことに気づく。その目は明らかに泳いでいた。完全に自分を見失っている。これは
怯えている?
再びコートの向こうに目をやる。女性が腕を組み替えた。ラテン男はそそくさと自分のポジションに戻ると、ラケットを構える。そのすみやかな移動。
もううるさくはなかった。
男の名は小出優陽。この男以上に環境に左右される人間に、自分はまだ出会ったことがない。