0、名もなき者達の物語
『三国志』は晋の時代に書かれた歴史書であり、基本的に事実のみを書き残したものだ。ただ、魏の将軍、司馬炎が魏から政権を奪い取り、晋の武帝として即位した上で残されているものであるため、魏を正統の王朝とした書き方になっている。
一方『三国志演義』は民衆の間で語り継がれてきた伝承を元にした小説であるため、フィクションの要素が色濃く、義に厚い劉備が主役として描かれている。
正統と異端。
後ろ盾のあるものないもの。
プロとそうでない者。
ないものをあるように見立て、夢見ることを可能にするフィクション。
価値は比較するものではないのかもしれない。ただ比重が違うだけで。
例えば「自分の方が先に好きになった」とか「自分の方が理解できる」とか「共に在る時間が長い」とか。それらは全て瑣末な問題。わざわざ取り立てるまでもない。
大事なのは向き合う時の熱量。没入するその瞬間、どれだけ対象によって満たされるか。そうしてそれは一過性のものではないか。
これはテニスをするために集った者達の物語である。
大坂なおみ選手が渦中で言った「テニスは私の全てではない」
生業とする程の者でも、全てには至らない。あのロジャーフェデラーでさえ「妻が僕と一緒にツアーを回りたくないと言ったら、辞める」と言う。
その競技がなくても生きていける。でも知ってしまった以上、その競技のない人生はどんなに平和で、凡庸で、味気ないものだろうとも思う。全てではない。けれど一部でもない。
オブラートのようにまとうは相応の筋肉。肉体はウソをつかない。望む動きを望んだ速度で可能にし、次のステップへと誘う。何のことない、やってみたらできたというくらいふざけた調子で、しなる。
ストローク、ボレー、サーブ、スマッシュ。全て全身運動。運動の末、弾き出されるスピード、パワー。
時速何キロのサーブが打てるのか知らない。プロではないから。映像として残ることもない。プロではないから。そもそも形を求めてなんかいない。この愛情に見返りは求めない。ただ、現時点で享受する喜びの方がはるかに大きい。見合っていない。だから、それでも、不相応でもコートに赴く。少しでも近づけるように、少しでも見合う自分になれるように、今自分に出来ることをする。
限られた時間、その中で得るものを増やすため、同じではなく着実に一歩一歩進むため、綿密に繰り返すPDCA。力学。仕組みを知ることで失敗の訳を知る。正しい力の放出の仕方を学ぶ。この競技は、だから頭と身体をフルに使う。
これはこの競技を生涯の伴侶と決めた、プロでも何でもない者達の物語である。