episode・15 あと一歩!
嬉しい。
ついに雅君が敬語を使わなくなった。
家庭教師のアルバイトを増やす許可を条件に、強引に敬語をやめるように言ってたんだけど、挨拶以外は変わらず敬語だったもんね。
ふふ、照れ臭そうにしてるところを見るに、私に気を使ったわけじゃなくて自然と口から出たって感じみたい。
凄く、すっごく嬉しい♡
「さぁ、着いたわよ」
渋滞もなく順調にマンションの地下駐車場に車を停めて隣に座っている雅に声をかけたんだけど……。
「……寝てるの?」
途中から妙に静かだなとは思ってたけど、寝てたのね。
気持ち良さそうに寝てるからこのまま寝かせてあげたいけど、濡れた服のままじゃ本当に風邪ひいちゃうから起こさないとね。
「雅く……ん”ん”っ」
駅でどさくさに紛れて呼び捨てにしたけど、本人から嫌そうな反応はなかったんだからいいよね――私は極力音を殺した咳払いして仕切り直す……。
「み、雅……おうちに着いたわよ、起きなさい」
ちょっと上擦った声になっちゃったけど、まずまず自然に呼び捨てにできたんじゃないかしら、って浸ってる場合じゃないわね。早く起こさないと。
私は雅の肩に手を置いて軽く揺すって「雅、起きて」ともう一度声をかけると「……ん、」と小さい声を出して少し瞼が開いた。
「起きたかしら?」
「……沙耶さん? あれ?」
「うん。おうちに着いたから、早くシャワーを浴びて体を温めなさい」
「あ……寝っちゃってたのか。ごめん」
「…………」
「わざわざ送ってくれてありがとう、沙耶さん」
「………………」
「……沙耶さん?」
「ハッ!?」
駄目だわ、私ったら。
嬉し過ぎて意識が飛んじゃってたわ。
「い、いいのよ、気にしないで。そんな事はいいから、早くシャワー浴びて体を温めないと」
言って、いそいそと車を降りる私をポカンと雅が見てる。
「あれ? 沙耶さん仕事は?」
あぁ、そっか。寝てたから知らないのか。
「うん。打ち合わせの予定はあれで最後でね。後は会社に戻って明日のブリーフィングの資料を纏めるだけで会社に戻らなくても家でも出来る仕事だから、さっき連絡して直帰する事にしたの」
「それって俺のせいだよね? 俺は大丈夫だから無理しないで」
「…………」
「沙耶さん?」
「ハッ!?」
いけない、いけない!
健気な雅が可愛すぎて、また意識が飛んでしまってたわ。
「ふふ、大丈夫、心配しないで。偶にはお義母さんに甘えなさい」
ああ……ウチは娘2人だったから知らなかったけど、息子の母親ってこんな気持ちになるのね。控えめに言って幸せ♡
気を抜いたらウネウネと悶えそうになるわ。
それからは雅も何も言わずに一緒に帰宅した。
「雅はそのまま浴室に行ってシャワー浴びてきなさい」
「え? でも着替え用意しないと」
「着替えは私が用意して脱衣所に置いておくわよ」
「いやいや! それは流石に……」
雅が遠慮するのは、きっとアレね。
「下着の事? 男の子がそんな事気にしないの。私、貴方のお義母さんなのよ?」
「……でも」
男所帯が長かったからなのか、それとも息子というものは母親に対してそういう羞恥心はいくつになってもあるものなのかは私には分からない。
(だから私は私の息子を持つ母親像を貫かせて頂きます!)
「はいはい! 早くシャワー浴びてくる!」
「え、ち、ちょっと!?」
渋る雅の背中を押して浴室に押し込んでドアを閉めると、観念したのか閉めたドアを開ける事をしなかった。
その事を確認した私はリビングの奥にある雅の部屋のドアを開ける。掃除でも何でも何時も自分でやっちゃうから、何気に雅の部屋に入るのは初めての事だ。
「予想はしてたけど、ホントに綺麗に使ってるわね」
雅の部屋は余り物を置かないシンプルなインテリアだけど、家具の1つ1つがセンス良く配置されていて、しかも隅々まで掃除が行き届いていた。
こういうシンプルなインテリアの部屋は探し物をする時に都合がいい。
「だいだいこういう所にチェストが……あったわ」
グレーのチェストがクローゼットの脇に置いてあり、引き出しを引くとやっぱり下着が収納されていた。
ジロジロと物色したら雅に悪いから一番上にあったパンツを取って、他の段の引き出しにあったよく部屋着にしているシャツと短パンを取り出した。
私は脱衣所でバッタリなんて事のないように手にした着替えを持って、小走りで浴室に向かう。
一応ノックしてから反応がないのを確認して脱衣所に入り、着替えやタオルを置く籠に着替えを置く。
「雅ー。着替え籠に置いておくわね」
「え? あ、はい。すみません」
あらあら、照れ臭くて慌てたのかしら、敬語に戻っちゃってる。
「け・い・ご!」
「……あ、ごめん、沙耶さん」
「はい、よくできました」
ふふ、そういう時素直に謝れるのが雅のいい所の1つなのよね。
脱衣所かリビングに戻った私は自室に入って着替える事にした。よくよく考えたらスーツを着たままする事じゃなかったなと苦笑いを零して、よく部屋着に使っているゆったりとセットアップしたニット生地のラウンドヘムワンピースに着替えてリビングに戻る……と見せかけて真っ直ぐに書斎に入る。
リビングの奥にある家族の自室とは別に、このマンションにはゲストルームが二部屋あるんだけど、その一室を太一さんと共同の書斎として使っている。
家族との時間を大切にしたいから極力家に仕事を持ち込まないようにしているんだけど、今回は急に直帰したから仕方がない。
とはいえ、これは仕事をする為に書斎に入ったわけじゃない。まぁ、後で仕事しないとなんだけど、今はそれどころではないのだ。
「……んふっ、んふふふふふ……。んっふふふふふふ!」
私が書斎に入った理由。
それは車に乗せた雅の照れ臭そうに敬語をやめてお礼を言ってくれてからの、ついさっきまでの雅の事が頭から離れなくて悶えるのを我慢出来なかったからだ。
リビングでクネクネと悶えてるとこ雅に見られたら恥ずかし過ぎて死にたくなるけど、ここなら部屋の鍵も閉めたし見られる心配はなし!
んふふふ、可愛かったなぁ雅。
あの子が私の息子かと思うと何でもしてあげたくなっちゃう。
私は本当に幸せだ。太一さんに愛されて、可愛い娘達も戻ってきてくれた。そして、とても家族思いの息子。
炊事洗濯完璧!特に料理はプロ級の腕前で、私の出番が全然なくて母親なのに情けない限りだ。
きっと私の事をさん付けで名前で呼ぶのはちっとも母親らしくないからなんだろう。
でも、もしそれが原因なら頑張っていればきっとお母さんって呼んでくれるはずだ。
折角敬語をやめてくれたんだから、この流れを手放すわけにはいかない。
「うん! 頑張ろう、私!」
拳をギュッと握って気合いを入れれば、浴室のドアが開く音がした。
どうやら悶えてる間に雅がシャワーを終えたようだ。
「しっかり温まった?」
「うん。ありがとう、沙耶さん」
雅の後を追うようにリビングに戻ると、バスタオルで髪をガシガシと拭いている雅がいた。
何時も生い茂っている髪のせいで隠れてしまっている顔が、今は濡髪を掻き上げているから全部見える。
相変わらずとても綺麗な顔立ちでスタイルの良さも相まって見惚れてしまう程だ。勿論、私にとっては愛おしい息子だから女の目でなんて見ていないけれど、駅の構内で女の子達がお近付きになろうと声をかけるのも十二分に理解できる容姿をしている。
「何か飲む? 喉乾いたでしょ?」
「うん。じゃあアイスコーヒーがいいかな。確か新しいのがあったはずだから」
「むー、私より冷蔵庫事情に詳しいなんて、悔しい」
「はは、実際我が家の台所を預かってるのは俺だからね」
「言ったなー! いつか絶対取り返してやるんだから、覚えておきなさい!?」
「あー、はいはい。その時を楽しみにしてるよ」
「ん、もう!」
幸せだ。雅とも色々な話をしてきたけど、いつも他人行儀な敬語だったからも構えてしまってたから本当に楽しい。
だから、こうして砕けた口調で話をするのが本当に幸せ。
雅の分のアイスコーヒーをソファーの前にあるテーブルに置いて、雅の隣に座った私は自分の分のアイスコーヒーを一口飲んで喉を潤して一息ついた。
「それにしても、あの子達は駄目ね」
「ん? あの子達って?」
「ほら、駅の構内で雅に声かけてきた子達よ」
「あー、って何が駄目なん?」
「だって、幾ら雅が目を引くからってあんなに目をギラギラさせて声かけるなんて、女性としてはしたないじゃない」
「え? あの子達ってずぶ濡れの俺に親切にタオル貸してくれただけだって」
「……それ本気で言って……るんだよね。うん、わかってる」
「最近それよく言われるんだけど、なんなのさ」
よく分からないと首を傾げる雅に苦笑すれば、以前同僚の子の息子に彼女ができたって話を聞いたのを思い出した。
何だか息子をその子に盗られたみたいで悔しかったって言ってて、その時はよく分からなかったんだけど、ようやくその気持ちが理解できた。
確かに可愛い息子を盗られた気になるかもしれない。まだ雅には恋人がいないみたいだけど、その時の事を想像しただけでモヤモヤした気持ちになる。
(……なるほど、こういう気持ち、か)
息子に恋人ができて、いつか結婚する時がくる。
親としては祝福する場面なんだろうけど、今から想像してみてもおめでとうって言える気がしない。
決して何時までも子離れしたくないなんて言うつもりはないけれど、やっと親子らしくなってきたんだから暫くはこのままでいたいと思うのは傲慢なんだろうか。
「……今は誰を連れて来たって素直に認められなくて、粗探しばっかりするんだろうな」
「え? 何の話?」
おっと、心の声が漏れてしまってたみたいね。
でも、実際母親として雅の相手はしっかりと見極める必要があるわね。
だって、ただ駅にいるだけでワラワラと女の子が寄ってくるような子なんだもん。悪い女に引っかからないように母としてしっかり管理しないとだわ!
「えっと、拳握ってなに気合いいれてんの?」
「誓いを立ててたのよ」
「何に対して誓ったのさ?」
「んふふ、秘密よ」
それからもお茶請けに用意したクッキーを摘まみながら、私達はこれまで他人行儀は言葉使いのせいであまり話せなかった事を色々話し合った。
それこそ、時間を忘れるくらいに話し込んで気が付けば日が大きく傾いて夜の気配が部屋のガラスで出来ている壁から伺えた。
「そろそろ夕飯の準備しないとね。ねぇ雅、今夜は雅が作る日だけど、私に作らせてくれな――」
楽しい時間が去って夕食の支度を自分がやると言おうとガラスから見える景色から隣に視線を移したら、静かな寝息を立てて雅が眠っていた。
そうよね。いつも明るく振舞ってるけど、大学の勉強に家庭教師とカフェのアルバイト。その上この家の炊事洗濯の殆どを請け負ってくれてるんだから、疲れが溜まってて当然よね。
「……ん」
静かに眠る雅を眺めてたら、座っている体制が崩れて私の肩に頭を預ける恰好になった。
でも、私は全く慌てる事なく、こうするのが当然とばかりに気が付けば雅の頭をそっと自分の膝にのせていた。
少し湿り気のあるまだ乾き切っていない髪にそっと触れて、優しく撫でてみる。
「君はしっかりし過ぎてる。そうしないといけなかったんだろうけど、これからはいっぱい甘えてね。お義母さん頑張るから……」
気持ちの余裕を少しでも作ってあげられれば、大学生らしくキャンパスライフを楽しめるはずだ。
雅は今でも十分に楽しいって言うけれど、圧倒的な自由っていうのは今だけなんだから、今しか出来ない事をして欲しい。
私としては複雑だけど、恋愛だってするべきだしね。
恋愛なんていつでも出来るって言いそうだけど、社会に出てからする恋愛は別物だから。
私は雅が何故そこまで自分の顔を憎んでると言っていいくらいに、嫌悪してる理由を知っている。
結婚を申し込まれて返事をする前に太一さんから聞いた。
一緒になってから話すのは卑怯だから、雅の事も含めて再婚を考えて欲しいという理由で。
正直、話を聞いた時信じられない思いだった。離婚して娘達に迷惑かけた私が言える事じゃないかもしれないけれど、そんな酷い母親がいるのかと聞いた直後は言葉を失った。
離婚した理由も酷いものだったけど私が言葉を失ったのは、行かないでと泣きつく自分の子供に言った母親の一言。
あんな事をあんな場で告げられて、どれだけ心に大きな傷を負ったのか私には計り知る事が出来ない。それほどの事を立ち去り際にまだ小学生の雅に言った言葉が信じられなかった。
雅がこうなってしまった経緯を知っているからこそ、安易な行動で傷に塩を塗る様な真似は絶対にしたくない。
……だから、私が雅にしてあげられる事は1つだけだ。
「私に見守らせてね、雅」
小さな子供ならともかく、雅は大学生、紫苑は社会人。夕弦だってもう高校生だから、親がしてあげられる事なんてたかがしれてるかもしれない。
でも、今まで何も出来なかった分をこれから取り返したい。
それはつい最近まで他人だった雅だっておんなじだ。
(まずは今日の夕飯を作る事かしらね)
今夜はご馳走にしましょう。
だって、雅が私に敬語を使わなくなった記念日だもの。
「ただいまー……って! 何でお母さんがもう帰ってんの!? ていうか何してんの!? え? どう言う事!? なんでお母さんが雅君を膝枕してんの!? 説明してよ!」
ああ……夕弦が帰ってきた。




