episode・6 心のお願い
「ご苦労様。今日も宜しくお願い致します」
「こんばんは。こちらこそ宜しくお願いします」
今日は西宮心の家庭教師のバイトの日だ。
始めはどうなるかと思ったけど、ここのところ慣れてきたのか順調にこなせていると思う。
生徒である心は相変わらずぶっきら棒な態度ではあるけど、勉強への向き合い方を掴んだのか、日に日に自信に満ちた顔を見せるようになってきている。
いつものようにリビングに通されて、二階にある心の部屋へ向かおうと螺旋階段に差し掛かった時、二階の方から勢いよくドアが開く音が聞こえた。
「センセッ!」
二階の廊下の手摺りに飛びつく勢いで駆けてきて俺を呼んだのは、現在唯一の生徒である西宮心だった。
どうしたんだ?いつもなら出迎える事なんてした事なかったのにと、首を傾げながら二階に上がり切ると、心が手に持っていた一枚の紙を俺の目の前に向けてきた。
「なんだ? これ」
「前回受けた模試の結果だよ! 早く見ろし!」
そういえば、力試しに模試を受けさせていたんだったな。
そんな呑気な事を考えながら、目の前に突きつけられた結果票を覗き込むと、そこには偏差値が跳ね上がった数字が記入されたいた。
「おぉ! 偏差値がかなり上がってるじゃん! 数学もそうだけど、苦手な英語の偏差値が跳ね上がってるじゃないか」
「うん! こんな点数取ったの初めてだし!」
模試の結果は、俺が担当している数学と英語を中心に、偏差値がかなり上がっていた。
そういう結果を求められていた俺にとっても朗報で、ひとまずホッと胸を撫で下ろせる結果といっていいだろう。
更に嬉しい副産物として他の教科の偏差値も上がっていたのには、正直驚かされた。
「俺の担当外の科目も上がってるじゃないか」
「そう! 英語と数学の手応えが良かったから、余裕が出来たのかな!」
なるほど。元々他の教科の成績は悪くなかったから、英語や数学のような上がり方をしているわけじゃないけど、伸びしろを見付けられたってとこか。
とにかく、方向性は間違っていないって証明になったんだから、このまま上げていければ、志望大学であるK大現役合格も決して不可能じゃないぞ。
「あの、その模試の結果の事で主人が話をしたいと言っていますので、授業が終わった後に少しお時間を頂きたいのですが」
「え? お話ですか? それは構いませんが」
「そうですか。主人ももうすぐ帰宅すると思いますので、後程宜しくお願い致します」
心の母が丁寧にお辞儀をして、お茶を用意すると登ってきた螺旋階段を降りて行った。
しっかし、いかにもって感じの品がある人だよなぁ。
「センセ? まさかとは思うけど、ウチのママが気になってるって事はないじゃんね?」
「は!? そんなわけないだろ。アホな事言ってないで授業始めるから、部屋に行くぞ」
「ア、アホって言うなし!」
ギャーギャーと抗議する心を軽くあしらいながら部屋に向かって、いつものように講義を始めたのだった。
模試の結果が良かったからだろう。いつも以上に講義を食い入るように受けていた。
それはそうだよな。誰だって結果が出れば自信がつくし、何より努力が報われるのは最高の気分だろう。
「ん。出来た」
「あいよ」
いつも通り今日の総まとめとしてやらせている小テストの採点を始めていると、ふぅと一息ついていた心が不意に声をかけてきた。
「ねぇ」
「ん~?」
「お願いがあるんだけど、訊いてくんない?」
「金ならないぞ」
「お金ならあるし!」
と掴み?がとれた所で、本題を訊く事にする。
「で、なんだ?」
「アーシね、バイトがしてみたいんだ!」
「は? バイト? お嬢様のお前がそんな事する必要ないだろ。それに受験に向けて頑張ってるとこなんだから、余計な事しない方がいいと思うんだけど」
何を言い出すのかと思えばバイトとか……お嬢様の考えはよく解らんな。
「長期じゃなくて、短期でいいからさ。ほら! もうすぐ夏休みだしさ。その期間だけでも働いてみたいんだし!」
どうしてって疑問が晴れないから詳しく理由を訊いてみると、心の言い分はこうだった。
俺と初めて会った時、親の拗ねかじりと言われてから考えていた事があるらしく、今まで当たり前の事だと思っていた事が、本当はどれだけ恵まれていたのかに気付いたそうだ。
それで確かに現状働いて金を稼ぐ必要はないけど、実際に自分で働くという事の大変さを経験してみたいと思ったらしい。
「でね! パパとママにその事を相談したら、勉強も頑張ってるようだし、社会勉強も必要だろうからって許可もとってあるんだ」
「用意周到じゃねぇかって言いたい所だけど、それで俺にお願いがあるって事に繋がりを感じないんだけど?」
「いや~! ほらっ、初めてのバイトだし? 不安もやっぱりあったりするわけよ」
「うん。で?」
「だから、知ってる人がいる所なら安心かなって思ってさ!」
「――は?」
「センセってカフェと違くて、落ち着いた喫茶店って言うの? そこでもバイトしてんだよね?」
「おい……お前まさか」
「そんでぇ、確かセンセのバイト先って最近2人辞めたって言ってたっしょ?」
――うん。流石に何が言いたいのか分かったよ。
それも含めて、事前に親御さんに話を通したんだろ?
外堀からなんちゃらって言葉をご存知だったのね……。
「つまり要約すると……だ。バイトしたいけど、変な奴と仕事をするのは嫌だから、見知った人間がいる。つまり俺が働いている喫茶店のバイトを紹介しろ……と?」
「まぁ、そういう事だし!」
「付け加えるなら、親御さんの許可が下りた内容って、俺が働いている店ならいいって言われたんだな?」
「そそ! アーシも付け加えると、あれだけ世間知らずの拗ねかじりで惰眠の様な生活しか知らないって馬鹿にしたんだから、その責任はとってくれるよねって事で、よろっ!」
そこまで言ってねぇだろ!って問題はそんな些細な事じゃねぇな。
そんなやり取りをしながら採点を済ませて、今日の講義は終了した。小テストの結果は満点で、バイト期間中も勉強のクオリティを落とさないから安心しろし!と付け加えられながら、俺はもう殆ど諦めの溜息を吐いて、西宮さんが待っているリビングに心と向かった。
「やぁ、ご苦労様。月城君」
「こんばんは。西宮さん」
豪華なソファーに腰を落として心の父親である西宮さんと向かい合うと、早速だがと一枚の茶封筒を差し出された。
「あの、これは?」
なんて訊いてみたが、中に何が入っているのかは想像出来ていた。
「今回の模試の結果を見させて貰ったよ。それで、謝礼というか臨時ボーナスとして、これを受け取って欲しいと思ってね」
やっぱりそうだ。この中は俺が欲しくて仕方がなかった瑛太に聞いていた臨時ボーナスだった。
本来なら本心はどうあれ、形だけでも遠慮する仕草を見せる場面なんだろうけど、俺は全く躊躇なく差し出された茶封筒を受け取った。
その行動で怪訝な顔をされるかと思ってたけど、西宮さんはニヤリと満足そうな笑みを浮かべた。
「ははっ、いいね。見せ空いた芝居なんてする事なく、当然のように受け取るとはね」
「いけなかったですか?」
「いや、それでいい。それを受け取っていい結果を仕事として出したのだから、君にはそれを受け取る権利があるからね。一社会人として清々しい気分だよ」
「そう言って頂けると、僕としても助かります」
別に西宮さんと駆け引きをした覚えはない。だけど、俺と同じ考えをしてくれていた事で、この人の器の大きさを知る事が出来たように思えた。
「今後も引き続き娘の事をお願いするよ」
「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう最善を尽くします」
俺と父親のやり取りを嬉しそうに眺めていた心が、ここで口を挟んできた。
「ねぇ、パパ! 前に話したバイトの件なんだけど」
「あぁ、その事も話さないといけなかったね。月城君、娘から聞いたと思うんだが、どうかな? 私としては君のバイト先なら安心出来るんだけどね」
ほら!外堀を完全に囲まれてるじゃんか。
「はぁ、その件は僕が雇うわけではありませんのでお任せくださいとは言えませんが、なるべく心さんのご要望を叶えられるように、自分なりに雇い主に掛け合ってみます」
とりあえず現状はこう返答するしかないだろう。
丁度、明日シフトが入っているから、その時に問い合わせてみるか。
「よろしくね! センセ!」
はいはい。分かりましたよ……。
その後、心の親御さん達と少し談笑してから、ようやく解放されて西宮家を出た時は、もう23時前になっていた。
家庭教師のバイトの日はどうしても遅くなってしまうから、事前に夕食は帰宅してから自分で適当に作ると連絡は入れていたんだけど――正直、この時間から帰宅して料理をする気になれず、どうしようか悩んだ結果、以前から気になっていたオープンして半月程になるラーメン屋の前に立っていた。




