episode・1 再婚
「え? 再婚!?」
午後10時過ぎ 自宅である小さなマンションにあるキッチンで、夕食の後かたずけをしていた俺に、淹れた珈琲が注がれているマグカップをジッと見つめている親父から、突然そう告げられた。
洗い物をする手を止めて、水道の蛇口を閉める。
親父は俺の反応を待っているのか、それ以上何も言ってこない。
蛇口から零れた雫がシンクに落ちて、ポンッと跳ねた音だけが部屋に響く。
俺は黙ったまま親父の向かい側のソファーに腰を下ろして、少し辛そうな表情をしている親父の目を見つめた。
「どんな人なんだ?」
「建築デザインを請け負っている規模の大きな会社で働いている人で、今はそこでフロアマネージャーを任されていて、とても責任感が強い人なんだ」
社名を聞いて、学生の俺でも知ってる会社だった為、そこのフロアマネージャーを任される人なんだから、物凄く仕事が出来るバリバリのキャリアウーマンだという事を想像するのは容易だった。
「もう1つだけ質問してもいい?」
「あぁ、勿論だ」
「再婚する気になったのは、俺が原因なのか?」
親父にそう質問したのには訳がある。俺、月城 雅は現在都内にある大学の2回生だ。財政事情が厳しく奨学金で大学に進むつもりだったのだが、親父が社会に出てすぐに借金の事を考えていたら、いい仕事なんて出来ないと大反対された結果、親父がコツコツと貯めていた金から俺の学費を捻出して、大学に進学させてくれた。
その事には勿論、感謝してはいる。
でも、母親が10年前に突然家を出て行ってから、忙しい仕事に追われつつも、男手1つでここまで育ててくれた親父には恩がある。
親なのだから当然だと言う奴もいるだろうが、小学生の頃の俺から見ても、本当に大変だと分かる程、親父はずっと苦労してきたんだ。
昔、俺は自分を見失い腐りきっていて、散々親父に迷惑をかけた。だがそんな俺を親父は見捨てたりせず、どれだけ突き放そうとしても諦めず、体を張って俺を更生させようとしてくれた。
そんな親父の気持ちに触れて、馬鹿な世界から足を洗った俺に、親父は今までの分を取り戻すんだと。
俺のせいで経済的に余裕なんてなかったはずなのに、俺を予備校へ通わせてくれて、俺はそんな親父の期待に応えたくて、死に物狂いで勉強に取り組んだ。
今こうして大学生をしていられるのは、親父のおかげで、そんな負い目のような感情を持っていた俺だから、こんな事を考えてはいけないと思いつつも、そんな馬鹿な質問をしたんだ。
つまり俺の為に、相手の収入を当てにして再婚する気になったのかと、俺はそんな疑問を持ってしまったのだ。
「馬鹿な事を……そんな失礼な理由で再婚を申し込むわけないだろう」
こんな質問をして、親父が怒りだすのではないかと覚悟していたのだが、どうやらそれは杞憂のだったようで、親父は口調を変えずに俺の馬鹿な質問に答えてくれた。
「そっか……それならいいんだ。おめでとう!親父」
「雅……い、いいのか?」
自分の事を一切気にする事なく、ずっと俺の為だけに頑張ってくれた親父が、母親がいなくなってから、初めて自分の幸せを掴もうとしているんだ。
反対する理由なんて、俺には全く思いつかない。
「勿論だよ……親父には本当に世話になってきたからな。俺が一番親父に幸せになって欲しいって思ってるんだから」
「あ、ありがとう……雅」
声を殺して泣いている親父を見るのは、これで2度目だ。
1度目は母親がウチの玄関のドアを閉めた時、悲しみの底から滲み出たような涙だった。
でも、2度目はキラキラと光る嬉しそうな涙が頬を伝い、ポツポツとソファーを湿らせている。
俺は親父のそんな涙を見て、気が付くと同じ涙を流していた。
◇◆
翌日の朝、今日は1限から講義がある為、2人分の弁当を時間に追われながら作っている。
昨夜は、あれから成人して間もないというのに、親父と遅くまで酒を酌み交わした。酒はあまり得意ではなかったが、あんなに美味いと感じる酒は始めてだった。
そんな酒の席が午前3時過ぎまで続くと、まだ酒に慣れていない事もあって、流石に身体に堪えてしまい朝からアクビばかり連発している。
だが、そこは流石の先輩である親父様だ。
同じ量を呑んでいたはずなのに、まるで一滴も呑まずに健康的な時間に寝たかのように、シャキシャキと身支度を始めている。
「弁当テーブルに置いてるからな! んじゃ、俺1限からだからもう行くよ! あっ、それと、今日の夜バイトが入ってて遅くなるから宜しく。いってきます!」
「おぉ! いってらっしゃい!」
見た目に反してパワフルな親父を背に、俺は決して元気ではないが家を出た。
マンションの駐輪所に停めてある、自慢のマウンテンバイクに跨りペダルを漕ぐ。
春先の暖かい風を感じながら、ドンドン加速させていくと、不思議と昨夜の酒が抜けていくような気がした。
マンションの近くを流れている川の土手を、風を切り裂くスピードで走っていると、土手を沿うように生えている桜の木から花びらがひらひらと舞い落ちて雅の顔に当たっては落ちていく。
「今年も綺麗に咲いたな」
毎年見事な花を咲かせる桜並木に、俺は春にちなんだ鼻歌なんかを歌いながら、自転車を走らせる。
快調に自転車を走らせていると、前方から歩行者の人影が見えた。
勿論、そんな事は珍しくない事なのだが、俺が気になったのはその歩行者の左右にフラフラと揺れ動く歩き方だった。
あまり視力が良くない俺は、眼鏡の威力を借りて目を凝らしてみると、歩いているのはどうやら女子高生のようで、手にはスマホを持っているのが見えた。
近年、各メディアから注意勧告されている、所謂ながらスマホというやつだ。
歩く前方に意識はなく、殆どスマホに意識を向けているようで、歩く動きが散漫になってしまっている。
あれだけ注意を呼び掛けられているのも関わらず、ながら関連の事故が絶えないのは、こういう輩が減らない為なのだろう。
そもそも歩行者だけではなく、この自転車のマナーの悪さもそうだ。
全く後方確認せずに、自分勝手に走る自転車乗りが増えた。
そんな自転車を安全運転している車が接触したら、車の運転手が罰せられる。
そんなバカな話があるか!そりゃドライブレコーダーが、純正採用されるわけだよ。
俺はそんな事をブツブツと考えながら、自転車のスピードを緩めて安全にそのJKを横切ろうとした時、また予期せぬ方向にフラつき横切ろうとした俺に接触した。
そういう事を想定して自転車を走らせていた俺は、すぐさま足を地面に着けてバランスを崩しそうになった自転車を立て直せたのだが、女子高生は接触したはずみで、手に持っていたスマホを地面に落下させてしまったようだ。
「ちょ! なにすんだし!!」
「は?」
派手な金髪に濃いメイク、如何にもといった女子高生が剣幕に文句を言ってくる。
意味が分からない。
どう考えても、悪いのは向こうであって、こっちが文句を言っていい場面のはずだ。
「これ持ち替えたばっかりなんだけど! 画面割れてんだけど!」
落としたスマホを拾い上げた女子高生は、更に剣幕に落としたスマホをこっちに突きつけながら怒鳴ってくる。
確かに最近CMが流れ始めた機種だな。あんな高額なスマホを買うなんて、最近のJKは金持ってんなぁ……ってそうじゃないだろ!
「いや、そっちがスマホ弄りながら、フラフラ歩いてたからだろ」
「はぁ!? あーしが悪いっての!?」
どう考えても、そうだろうと言いたかったのだが、あまりにも理解出来ない言動に呆気に取られてしまい、コクコクと頷く事しか出来なかった。
「あ~朝から最悪だっての!」
実は女子高生も多少の非は認めていたのか、それ以上こっちを責める事はせずに、怒り心頭といった感じを残しつつも、そう言い捨ててこの場を立ち去って行った。
月城は呆然としながら、立ち去る女子高生を眺めていると、また懲りずにスマホを弄りだしているのを見て、大きな溜息をつきながら再び自転車のペダルに足を乗せた。
全く1ミリも納得なんて出来なく、今更のように怒りが込み上げてきた月城だったが、大事にしている自転車が無傷だった事に安堵して、再び自転車を大学に向けて走らせた。