プロローグ
白い微睡の中意識を覚醒させた俺は、鏡で自分の顔を見なくても、凄く険しい顔をしているのが分かる。
――――また、あの夢を見た。
小学生の俺が、玄関先で大泣きしながら引き留めている。
俺の前に立っていた親父は、そんな俺に構う事なく、歯を食いしばりながら声を殺して涙を流していた。
――そして、そんな俺と親父を横目で見た母さんは、ニッと口角を少し上げ、何も言わずに玄関を閉めてウチを出て行った。
あれから何年も経ってんだ。
時々、思い出す事は未だにあるけど、夢に見るなんてずっとなかったはずなのに……どういうわけか、最近よく夢にあのシーンが出てくる事がある。
そんな朝の寝起きは最悪で、正直朝飯を作るのも億劫になり、弁当なんて全く作る気がおきない。
どうしても我慢出来ない朝は、親父に謝って昼飯は各自で食べる事にしてもらっている。
重い腰を上げて洗面所で顔を洗う。
伸ばしている濡れた前髪が鬱陶しくて、片手で掻き上げて鏡に映っている自分の顔を見ると、苛立ちを通り越して憎悪を覚えてしまう。
ゴンッ!
俺は鏡が割れない程度に、力を調整して映っている自分の顔を殴る。
――なに惚けた面で見てんだよ……糞が。
チッと舌打ちを打ちながら、掻き上げた前髪を乱暴に顔を隠す様に全部下ろし、前髪で鏡がよく見なくなった事を確認すると、タオルを首にかけてリビングへ向かう。
リビングに入ると親父がもう起きていて、新聞を読んでいた。
「おはよう」
「あぁ、おはよう。雅」
「悪いんだけどさ、今日弁当なしでもいいか?」
「……分かった。気にしなくていい」
「……ごめんな」
俺はキッチンに入り、タイマーをセットしていた珈琲メーカーからポットを取り出して、2つのマグカップに珈琲を注ぐ。
立ち込める珈琲の香りで少し気持ちを落ち着かせてから、フライパンに火をかけてベーコンをさっと焙る程度に焼いてから卵を落とす。
焼き加減を調整しながら、食パンをトースターに突っ込む。
淹れた珈琲を啜りながら、焼き終えたハムエッグを皿に移して、焼きあがったトーストを添えた。
昨日寝る前に仕込み、冷蔵庫で冷やしていたサラダをテーブルに運び終えて、よく作る我が家の定番になっている朝食の完成だ。
配膳を終えると、親父は新聞を置き向かい合った俺と一緒に手を合わせる。今朝は食べ始めても、俺から何か話す事がない。
それを親父が俺の様子を汲み取ってくれているのか、親父も必要最低限の連絡事項しか口にしなかった。
あの夢を見てしまった朝は、どうしても感情のコントロールに苦労してしまう。親父に当たるのは違うと分かっているんだけど、余計な事を言われると苛立ってしまう事があったからだ。
朝食を終えて、親父は出勤の支度に取り掛かり、大学が3限からだった俺は、洗濯機に洗剤と柔軟剤を注ぎスイッチを入れてから、キッチンに戻り洗い物を始めた。
「それじゃ、行ってくるぞ。雅」
「あぁ、いってらっしゃい」
親父は頷いてリビングのドアを開けたところで、足を止めた。
洗い物の手を止める事をせずに、立ち止まった親父を眺めていると、何だかソワソワと落ち着きがないように見えた。
「……どうしたんだ親父。何か忘れ物か?」
「――いや、いい。また今度でいいよ」
親父は何だか曖昧な返事を残して、玄関を出て行った。
俺はそんな親父に首を傾げたが、すぐに気にするのを止めて洗い物を一気に終わらせた。
洗濯物は乾燥機に任せているから、気にする事なく自室へ戻る。
時計を見ると、まだ時間に余裕があったから、俺はPCを立ち上げて唯一の趣味である小説の執筆に取り掛かった。
うん。この調子なら予定通り最終話更新出来るかな。
俺は今朝の夢を記憶からかき消すように、自分の作品の世界に没頭する事にした。
大学に入ってから、バイトして買ったPCで小説を書く事を始めた。
始めはこうして小説を書く為にPCを買ったわけではなかったけど、思ったよりPCでやりたい事なんて少なくて、勿体ないなと思っていた時に、今利用している小説の投稿型サイトの存在を知った。
昔から物語が好きで、よく本を読んでいた俺は、無料で利用出来るのならと興味本位で小説らしき物を書き始めたんだ。
それが意外にも性に合っていたらしく、今では生活の一部となっていたというわけだ。
おっと!もうこんな時間か。
時計を見ると、いつの間にか大学に向かう時間になっていた事に気付いた俺は、手早く身支度を整えて戸締りを確認してから玄関を出た。
こんな風に大した事もなく、地味に過ごしていく事が俺の人生だと思っていたんだ。
だが数日後、親父が突然口にした話から、俺の、いや、俺達の生活が一変する事になるなんて、この時の俺は考えた事もなかった。