(3)
彼が言っていた通り、彼がエルナの店を訪れる頻度も時間もバラバラだった。
十日以上も足が途絶えたかと思えば、日を置かずに顔を出すこともあった。
訪れるのは日中だけではなく、パンの仕込みを始めたばかりの日の出前や、そろそろベッドに入ろうかという遅い時間もあった。
朝、店を開けようとすると、扉の取っ手に野の花が結び付けられていたこともあった。
エルナは毎日、必ず林檎のパンを二つ取り置いた。
彼に食べてもらえなかったそのパンを、翌朝自分が食べることになっても、その甘味は幸せな想いとなって身体の中に積もっていく。
待つことはもう、辛くない。
いつなのかは分からなくても、彼が必ず来てくれると分かっていたから——。
エルナは小さな蝋燭を一本だけ持って、店の屋根裏にある寝室に上がってきた。
屋根の形と同じ斜めの天井は、部屋の中央以外は真っすぐに立つこともできないほど低い。
小さな明かり取りの窓の外は真っ暗で、部屋の中はひやりと寒かった。
けれどもエルナは、ふわふわとした温かな気分で粗末なベッドに入った。
さっきまで、フリッツと一緒に過ごしていたのだ。
「ふふ……っ」
毛布を鼻まで引っ張り上げると、思わず、思い出し笑いをしてしまう。
二人で質素な夕食を食べた後、彼が、工房の後片付けを手伝いたいと言い出した。
彼は、これまで掃除などしたことがなかったのだろう。
帚の使い方が分からず、こぼれた麦の粉を盛大に巻き上げてしまい、余計に仕事が増えた。
使った食器や鍋を洗うのも、時間がかかるばかりで一向に綺麗にならなかった。
「どうやったら落ちるの?」と、バターのぬるぬるがついた鍋に悪戦苦闘する彼を、年上なのにかわいいと思った。
でも、「これなら任せて!」と、エルナでは手押し車でないと運べない小麦の袋を、倉庫から工房まで担いできてくれた。
しかも、体格が良かったエルナの父親ですら、一袋ずつしか運ばなかったほど重いのに、彼は一袋を右肩に担ぎ、もう一袋を左手で小脇に抱えて運んだのだ。
フリッツは背は高くても随分と細身だし、彼の身分では、力仕事をすることもないだろうに。
エルナが驚くと「そうかな? 全然軽いけど」と笑った。
エルナは枕の下に手を差し入れると、小さな硬貨を取り出した。
蝋燭を消してしまったから、輝く金色は分からないが、硬貨にあしらわれた浮き彫りを指先で確かめる。
それはもう、眠る前の習慣になっていた。
片面は、おそらく古い時代の皇帝の肖像。
もう片面は、中心が丸く盛り上がった薔薇の花の意匠が刻まれていた。
「今日で二十八回だから……残り二十一回」
四十九回分の前払いなんて、とほうもない回数だと思っていたのに、いつの間にか半分を過ぎてしまった。
前払いしたお金がなくなってしまっても、彼は来てくれるだろうか?
もしかして、延長してくれる?
そんなことをふと考えてしまい、手の中の金貨をぎゅっと握りしめた。
淡い期待を振り払うように、枕の上で頭を強く左右に振る。
「勘違いしちゃだめよ。エルナ」
二人で過ごす時間がどれほど楽しくても、彼がどんなに優しくしてくれても、彼を好きになってはいけない。
彼とは住む世界が全く違うのだ。
「彼が店に来てくれるのは、お金を前払いしているからなんだから……」
何度も自分に言い聞かせる。
そうしないと、彼のことを好きになってしまいそうで怖かった。
けれども、そんなことをしてももう遅いということにも、本当は気付いていた。