(2)
フリッツがいつ来てもいいようにと、林檎のパンを二つ取り置くようになってから十日が過ぎた。
しかしあの日以来、彼が店を訪れることは一度もなかった。
食べてもらえないまま固くなったパンは、翌朝、新しいものが焼き上がった後、エルナの朝食になる。
これまでほとんど食べなかった甘いパンを毎日口にしていると、自分の身体が内側から甘く変わっていく気がする。
その甘味は重苦しく蓄積されていき、深い溜め息で逃しても、苦しくてたまらなかった。
さらに三日後。
「ばかみたい……。あんなの真に受けて」
自嘲気味に呟きながらも、まだ天板の上でぱきぱきと軽やかな音を立てているパンの中から、いちばんきれいに焼けたものを二つ選んで皿に乗せた。
「きっと、お金持ちにからかわれたんだわ」
そう自分に言い聞かせるが、あの優しそうな彼が、そんな人間だとは思えなかった。
だから、今日こそ来てくれるかもしれないと、これまで期待を捨てられずにきたのだ。
だけど、もう、今日で最後にしよう。
これ以上は、待つのをやめる。
そう決心して、皿の上のパンに布を被せると、あの日彼が座った席に置いた。
入り口の鐘が鳴る度に期待と落胆を繰り返しているうちに、人気のある商品がすべて完売した。
林檎のパンはもちろん、あの日彼が選んだ三種類のパンも全て店頭からなくなり、空っぽの寂しげな籠だけが並んでいた。
窓から差し込む光は夕焼け色に染まり、いつもの閉店時間がとっくに過ぎた。
それでもエルナは、なかなか店を閉めることができなかった。
「ほら……ね。やっぱり来ないのよ」
とうとう、ひとりぼっちの薄暗い店内に、諦めの声が落ちた。
頭の三角巾をむしり取り、くしゃくしゃにしてエプロンのポケットに詰め込む。
店の扉に『閉店』の札を下げ、鍵をかける。
そして、残っている商品の中から、キャラウェイシードが入ったパンを一つ取り、のろのろと工房へ向かった。
蝋燭の小さな炎の明かりが自分の周囲だけを照らす中、作り置きしてある野菜スープを温めながら、パンを薄く切る。
カップにハーブをそのまま入れ、お湯を注いだだけの手抜きのお茶を入れる。
ただ機械的に手を動かして作った質素な夕食をテーブルに並べると、みじめな思いで自分の席についた。
食欲なんてなかった。
いつの間にか冷めてしまった薄いスープを、ぼんやりとかき混ぜていると、微かな物音が聞こえた気がした。
はっと耳を澄ました後、苦笑する。
「そんなはずないじゃない」
湧き上がった期待を押し流すように、冷えたスープを一口飲んだ。
しかし、ややあって、また同じような音が聞こえた。
遠慮がちに扉を叩く音だ。
まさか!
慌てて工房の裏口に駆け寄ると、その足音に気付いたのか、外から声がした。
「エルナ。いるかい?」
ずっと待ちわびていた聞き覚えのある声。
急いで裏口の扉を開けると、そこに薄手の上着を身にまとった彼が立っていた。
「フリッツ!」
「こんなに遅い時間にごめんね。どうしても君にあい……いや、君のパンが食べたくなって来たんだけど」
恐縮したような彼の様子に、胸が熱くなる。
「本当に、来て……くれたんだ」
「え? また来るって約束したじゃないか。でも、林檎のパンはもうないよね」
「大丈夫! こっちに来て」
エルナは彼の手を取ると、工房の隅にあるテーブルまで引っ張っていった。
質素な夕食の向かい側に置かれた、布の掛けられた皿。
その布をそっとめくって見せると、彼は目を見張った。
「これは……。もしかして、僕のために、とっておいてくれたの?」
「ええ。昼間に焼いたものだから、この間みたいに焼きたてじゃないし、少し固くなっちゃっているけど」
「僕のこと……ずっと待っていてくれたの?」
しばらくの間、二つ並んだ林檎のパンを見つめていた彼が、少し屈んでエルナの顔を覗き込んだ。
エメラルドグリーンに蝋燭の炎が映り込み、不思議な色に染まった瞳が、エルナの答えを促すように、柔らかに細められる。
「だ、だって……四十九回分も前払いして、もらったんだし……。だから……」
確かに彼を待っていたのだ。
何日も。
何日も——。
けれど、そうと知られるのは恥ずかしい。
言い訳しながら後ずさると、追いかけるように伸びてきた彼の手が、頬を滑り、耳を通り、髪で止まった。
「すごく嬉しいよ。ありがとう、エルナ」
幸せそうにふわりと笑顔を浮かべた彼に、くらくらする。
「ああ、君の髪って、こんなにサラサラなんだね」
「ひゃあ!」
髪に軽く差し込まれた指先に背中がぞくりとして、それから顔がかっと熱くなり、エルナは跳ねるように後ろに下がった。
「あ、あのっ、お腹が空いているんだったら、他のパンも持ってくるわ。かぼちゃの種が乗ったパンは売り切れちゃったから、ケシの実でもいい? そ、そうだ。その前に、お茶も淹れなくちゃ。さっき温めたスープもあるけど、どうかしら? あああ……でもだめだわ。野菜と塩しか入っていないから、あなたの口にはきっと合わないわね」
自分でも何を言っているのか分からないほど狼狽えていると、彼は楽しそうに席についた。
「ありがとう。ぜひ頂くよ。君が作ったものなら、美味しいに決まってるからね」
「そ……そう? じゃあ、少し待ってて」
残っていたスープにもう少し火を入れる。
ケシの実が乗ったパンを薄く切ってチーズを乗せ、林檎のパンと共に余熱の残る石窯に入れた。
次に、ポットにハーブを入れて二人分のお湯を注ぐ。
さっき暗い気持ちでこなしていた作業を、今度は軽やかに片付けて、彼の前に皿とカップを並べた。
テーブルの両側に置かれたものが対になるのが、くすぐったかった。
「どうぞ」
「ああ、パンを温めてくれたんだね。おいしそうだ」
笑顔を浮かべたフリッツは、溶けたチーズが乗ったパンをまず手に取った。
パン屋の娘と、その店の客。
前払いされた、四十九分の一回の食事。
彼にとってはそれだけのことかもしれない。
けれども、エルナにとっては彼が向かいの席に座ってくれることが嬉しかった。
パンをちぎる彼の指先は繊細で、スプーンの扱いも優雅。
炎の色がちらちらと映る金色の髪と、濃い色の影が落ちた美しい輪郭。
粉っぽいパン屋の工房には、あまりにも似合つかわしくないひと。
どこの人だろう……?
普段は何をしているんだろう……?
初めて会った日には、名前ぐらいしか彼自身のことは聞けなかったから、どうしても気になる。
「ねぇ、フリッツはどこに住んでいるの? このあたりの人じゃないわよね?」
その質問に、スプーンを持つ彼の手が止まった。
「…………港のほうだよ」
「港? 結構遠いのね。この町にはどうして……」
「このスープ、とっても美味しいね。何か特別なものでも入っているの?」
もっといろいろ聞きたかったのに、彼はにっこりと話を遮った。
しかし、笑っている表情をしているが、細められたエメラルドグリーンの瞳からは感情が読めない。
もしかして、聞いちゃいけなかった?
二人の間に一瞬、気まずい空気が流れ、エルナは慌てて彼の質問に答える。
「ううん。味付けは塩だけなの。少しだけバターが入ってるけど」
「本当にそれだけ? ほんのり甘くて優しい味がする」
彼は、今度は本当に目を細めて笑うと、スプーンを口に運んだ。
その後は、何事もなかったかのように和やかな会話が続く。
エルナはもう、彼自身のことについて詮索するのは諦めた。
彼のことをもっと知りたかったが、さっきのように彼と気まずくなるのは嫌だった。
彼が貴族か富豪の子息だということは間違いないだろう。
貧しいパン職人の自分と、こうやって向かい合っていることすら奇跡なのだ。
だから、四十九回という限りのある、彼と過ごす時間を大切にしたいと思う。
それ以上を望んではいけない。
「もう遅いからそろそろ帰るよ。今日は楽しかった。また、来るからね」
デザート代わりの林檎のパンを二つ食べ終え、彼がゆっくりと席を立った。
「また……って、いつ?」
エルナはそう聞かずにはいられなかった。
あてもなく待ち続けるのは辛い。
いつ来るのかが分かれば、そんな思いをしなくてもすむ。
しかし彼は、申し訳なさそうに眼を伏せた。
「ごめん。自分でも、いつ外に出られるのか分からないんだ」
「……そう」
エルナがしょんぼりと俯くと、頭の上に手が置かれる。
「本当は、数日前にもここに来たんだよ」
「え? だったら……」
思わぬ言葉に顔を上げると、彼はふわりと微笑んだ。
頭に乗せられた手が、ゆっくりと髪を滑る。
「でも、真夜中だったから、明かりもついていなくてね。パン職人は、朝が早いんだろう? もう眠っているだろうと思って帰ったんだ」
「そんな時間……に?」
来てくれたの?
彼を待ちわびて、期待と落胆の間を行き来していた、あの日に?
驚きと感動は言葉にならず、ただ彼の袖をぎゅっと握りしめる。
それでも想いは伝わったらしく、彼は照れたように小さく頷いた。
「そのくらい、日も時間も、僕の思うようにならないんだ。だから、いつ来るのかは約束できないよ。でも、必ず来るから……ね」
彼は髪をゆっくりと撫でながら、言い聞かせるようにそう言った。