大いなる青を抱く薔薇(1)
「フレデリク。遅くなって申し訳ありません。父上に捕まってしまって……」
ゲラルトが執務室に入ると、大きな窓を背にした青年が、ゆっくりと振り返った。
「あの話、フリードリヒはどう言っていた?」
窓から差し込む外光に輝くダークブロンドの髪。
鼻筋の通った端正な顔立ちに、エメラルドグリーンの瞳が涼やかに映える、はっとするほどの美青年だ。
金糸の繊細な刺繍が施された濃緑の上着を羽織り、首もとのジャボには、深い藍色の貴石を中央にはめ込んだ、薔薇のブローチが留められている。
どう見ても高貴な立場にあると思われる青年に、ゲラルトは膝を折ることなく、すたすたと近づいていった。
緩く一つに束ねた黒髪を右前に下ろし、飾り気のない丈の長い濃紺の上着を身につけた彼の方は、明らかに従者風だ。
「他国との縁談の話ですか? 昨日話してみましたが、我が君は貴方に判断を任せると……。ただ、カルヴィーン卿には恩があるから、リーゼロッテをないがしろにするのはどうかとも、おっしゃっていました」
「ふん。リーゼはお前の妹だ。妹と皇帝との結婚話が消えたら、お前だって困るんだろう?」
「そんなことはありません。私はただ誠心誠意、我が君にお仕えするだけです」
「ふうん。相変わらず、優等生だな。ゲラルト」
フレデリクは皮肉な笑みを浮かべ、豪華な装飾が施された椅子にどかりと腰を下ろすと、机の上に長い両足を投げ出した。
肘掛けに両肘を乗せて指を組み、ふんと鼻を鳴らす。
上品な容姿には、あまりにも似合わないふるまいだ。
「あいつが言うことも分からなくもないが、カルヴィーン卿は既に大きな権力を振るっている。卿があいつに自分の娘との婚姻を迫るのは、さらに揺るぎない力を得ることと、自分の血筋から次の皇帝を出そうという魂胆なのだろう?」
「……それは、否定しません」
青年に睨みつけられ、ゲラルトは視線をそらせた。
九年前、ブラウヒューゲル皇国の前皇帝は、狩猟中の事故により命を落とし、同行していた九歳の皇子フリードリヒも崖から落ちて重傷を負った。
フリードリヒは、ベッドから起き上がることもできない状態のまま、形式的に皇位を継ぎ、前皇帝の信頼が厚かったカルヴィーン・ランゲンバッハが摂政の座についた。
カルヴィーンの長男や次男、実弟らも、国の重責を担い、実質的にはランゲンバッハ公爵家がこの国を支配するようになった。
その状況は、フリードリヒの傷が癒え、成人した今でも続いている。
ゲラルトはカルヴィーンの三男。フリードリヒが幼い頃は家庭教師として、長じてからは側近として仕えており、お飾り皇帝の監視役といった立場である。
「これ以上、あの狸親父に権力を集中させる訳にはいかない」
フレデリクの力強い言葉に、ゲラルトも頷いた。
フリードリヒの苦難を誰よりも近くで支え続けてきたゲラルトにとっては、自分も一員である公爵家の思惑より、ないがしろにされてきた悲劇の皇帝の復権が重要であった。
「だいたい、リーゼはまだ九歳のねんねだろう? 弟のハルトの相手ならちょうど良いが、フリードリヒの妃になると思うと、ぞっとする。そういう意味でも断固反対だ。俺にしてみれば、自分の子でもおかしくない年なんだからな」
フレデリクはくだけすぎた姿勢のまま、右手をすっと前に伸ばした。
それを見たゲラルトは、飾り棚の中から強いラム酒の瓶を取り出した。
グラスに琥珀色の液体を注ぎ入れながら言葉を返す。
「そりゃ、三十三歳の貴方からすればそうでしょうが、我が君は十八です」
「いやいや、それでもかなり無理がある。子ども相手に何をどうしろと言うんだ。だいたい、お前は平気なのか? 結婚するということは、まぁ、そういうことだろ?」
嗜虐的な表情で告げられたぼかした言葉に、ゲラルトは顔をしかめる。
「本音を言えば、相手が我が君であっても嫌ですよ。あああああぁ、リーゼ。まだ、あんなに小さくてかわいい女の子が、他の男のモノになってしまうなんて」
「あいかわらずのシスコンぶりだな。他の男と言っても、相手はお前の『我が君』だろう? お前は皇帝陛下の義理の兄になるんだ。めでたいじゃないか」
「それとこれとは、話は別なんですっ!」
怒りに任せて差し出したグラスの中の液体がたぷりと揺れた。
フレデリクはグラスを受け取ると、にやりと笑って酒をあおった。
「じゃあ、決まりだな。ランゲンバッハ家の思惑は別にして、お前個人としては問題ない。あいつも俺に任せると言ったのだから、話を進めても構わないだろう」
「そうですね」
「隣国のヴィエルには未婚の姫が何人かいたはずだ。大国のツァイ、フォルソワあたりと結んでも益は大きいが、国同士の均衡の問題もあるからな……」
「東のダクタル王国が、黙っていないかもしれませんね」
「そうだな。それも考慮して調査を始めてくれ。くれぐれも、お前の親父には嗅ぎつかれないようにな。しばらくは、あいつにも伏せておくほうが良いだろう」
「分かりました」
フレデリクは空のグラスをテーブルに置いた。
催促するように台に指が置かれたままのそれに、ゲラルトは眉をひそめながら、もう少しラム酒を注ぐ。
「これで終わりにしてくださいよ。今日はこの後、閣議に出てもらうのですから」
しかしフレデリクは、ゲラルトの苦言もどこ吹く風だ。
僅かな酒を一口で煽ると、グラスを弄びながら口元をだらしなく歪める。
「そうだなぁ。俺の希望を言わせてもらうと、年齢は十八歳以上。髪は金。瞳は青。でかい胸は絶対条件だな。噛み付かれそうな、気の強い女がいい」
「貴方の希望は却下です。だいたい、そんな女性が相手では、我が君は尻に敷かれます」
「ふん。つまらんことだな。まあ、いい。なるべく早いうちに目星をつけてくれ」
フレデリクはようやく諦めたのか、グラスを机に置くと手を離した。