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(9)

 エルナの膝に頭を乗せたままの男の全身は、ずっとこわばったままだ。

 しかし、痙攣の震えは徐々に弱まってきた。

 彼の言葉も笑い声も、小さくなっていく。


「ふふふ……はや……く、シないと、ま……に、あわないイ……よォ?」


 彼は焦点の合わない視線を彷徨わせながら、乾いた言葉で人ごとのように言う。


「アプチーカー……さん?」


 最初は、毒による症状がおさまってきたのだと思っていた。

 しかし、「間に合わない」という言葉に背筋がぞくりとなった。


 もしかすると彼は、力尽きようとしている?


「ゲラルトさんっ! 薬はまだですか」


 エルナは思わず叫んだ。


「まだです。まだ、色が変わらないんですっ!」


 ゲラルトも焦った声で叫び返す。


 室内に、玉葱が腐ったような悪臭が漂い始める。

 ゲラルトの背に隠れて見えないが、薬の材料を煮立たせているのだろう。

 その間にも、アプチーカーの笑い声は小さく、途切れ途切れになっていく。


 解毒剤が間に合わなくても死ぬことはないが、彼の……フリッツの全身の機能は麻痺してしまう。

 幼い頃、大怪我で長い間苦しんだ彼が、また身体の自由を奪われてしまうのだ。

 今度はそれが一生続くことになる。

 悲劇の皇帝とも呼ばれるほど幸せに縁がなかった彼を、さらなる不幸に落とすようなことは決してあってはならない。


「だめっ! アプチーカーさん、しっかりして!」


 エルナは彼の肩を揺さぶった。

「ふふ」と漏れた微かな笑い声にほっとするが、すぐに静かになってしまう。


「だめ! 起きて! もう少しだから頑張って。ゲラルトさん、まだですか!」

「今、色が変わったところです。急いで冷まさないと。どこかに水はないか?」


 ゲラルトの指示にマヌエラは室内を見回した。

 テーブルの上にあった水差しは、テーブルごと倒されて床の上で粉々になっている。


「他に、何か冷やせるもの……」


 彼女の目が飾り棚に止まった。

 ガラスの扉の向こうに瓶が見える。


「あれだ!」


 マヌエラはラム酒の瓶を二本抱えて戻るとゲラルトに手渡した。

 彼は、金属製のボウルに瓶の中身を注ぎ、薬が煮えたぎる小鍋の底をつけた。

 そして、ラム酒の温度の上昇を防ぐために、手近にあった金属製のナイフやハサミなどもボウルに突っ込んだ。

 薬の悪臭と混ざりあった、ラム酒の甘い香りがエルナに届く。


「まだですか!」

「もう少し冷まさないと、火傷してしまう」


 アプチーカーの笑い声が消えてからどれくらいたっただろう。

 彼の全身は硬直は硬直したままで、痙攣は完全に起こらなくなってしまった。


 彼の身体がこのまま固まってしまったらどうしよう。

 このまま一生動けなくなってしまったら……。


「早くっ! このままじゃ、アプチーカーさんが!」

「できました!」


 涙声で叫ぶエルナの元に、ゲラルトとマヌエラが駆けつけた。


「これを、飲ませてあげてください」


 ゲラルトはエルナに解毒剤が入ったグラスを渡すと、エルナの膝に頭を預けて横たわっていたアプチーカーの上半身を抱え上げた。

 グラスの中身は濃い茶色のどろりとした液体。

 異臭を放つ湯気がわずかに上がっているが、手に伝わる温度は高くない。

 エルナは半分開いたアプチーカーの口に、その液体を流し込んだ。

 しかし、すぐに唇の端から溢れて流れてしまう。


「お願い、フリッツ。飲んで!」

「我が君!」


 ゲラルトが、彼の頭を抱えて上向きにするが、解毒剤は彼の口の中に溜まっているだけで、飲み込むことはなかった。

 もう、自力で飲み込む力がないのだ。


「フリッツ、飲んで!」


 エルナは、手にしたグラスを口につけた。


「エルナ! だめです、それはっ!」


 中の液体は冷ましてあるはずなのに、口の中が焼けるように熱かった。

 とてつもない苦味と、腐った玉葱のような異臭とで、思わず吐き出しそうになる。

 しかしエルナはぐっとこらえて、彼の唇に自分の唇を重ねた。

 隙間ができないようにしっかりと彼の口を塞ぐと、自分の口の中の液体を圧をかけてゆっくりと流し込む。

 すると、途中でふっと栓がぬけたように抵抗が弱まり、彼の喉がこくりとなった。


「の……んだ?」


 ほっとして唇を離したエルナは、とたんに激しくむせかえった。

 口の中の熱が、身体中に弾け散ったように感じ、頭がくらくらする。

 それでも、もう一度グラスに口をつけようとしたところ、ゲラルトに手を押さえつけられた。


「だめです! 解毒剤は薬ではなくて、毒なんです。猛毒なんです! 後は私がやりますから」

「大丈夫……です。わたしにやらせて」


 フリッツは自分を助けるために薬を飲んだのだ。

 自分を見捨て、エアハルトの要求を拒否していれば、こんな目に合わなくて済んだかもしれないのに、彼はそうしなかった。


 だから、彼はわたしが助ける!


 エルナはゲラルトの手を振り払うと、また、グラスの中身を口に含んだ。

 二口目はさらに熱く、口の中に溶けた鉄を流し込んだかのように思えた。

 しかし、苦味や臭いはあまり感じなくなっていた。


 フリッツは与えられた解毒剤を、今度は抵抗なく飲み込んだ。

 しかし、直後に、さっきのエルナのように激しくむせる。


「だめです、我が君! こらえてください」


 ゲラルトが、薬を吐き出さないように彼の口を手で塞いだ。


「む……っ、ぐ、ぐふっ」


 さっきまで動かなかったフリッツの身体が跳ねる。

 その苦しそうな様子に、エルナは解毒剤の効果を確信した。


「頑張って! フリッツ!」


 彼の手を握りしめると、折れ曲がって固まっていた指がわずかに動いている。


「あと、少し」


 エルナはグラスに残っていた液体をすべて口に含んだ。

 もう、口の中に熱さは感じなかった。

 全身に燃え広がったような熱が、それ以上に激しかったから。


 エルナは彼の口を塞ぐゲラルトの手をどかすと、最後の解毒剤を与えた。

 彼はそれをあっさりと飲み込んだ。

 もう咳き込んだりはしなかった。


 しばらくすると、静かだった彼の呼吸が、再び荒く速くなっていく。

 青白かった顔色が、赤く熱を帯びる。

 枯れたようにかさかさしていた肌が、じっとりと汗ばんでくる。

 彼の身体が、自分が飲ませた薬で、機能を取り戻し始めている証拠だ。


「頑張って、フリッツ!」

「う……ぁ……はっ」


 彼の腕が、びくりと持ち上がった。


「フリッ……ツ。もう、大丈夫……よ。あなたはきっと、助か…………る」


 よかった。

 彼の失われかけた未来を、取り戻してあげることができた。


 自分の身体は燃えるように熱く、頭はくらくらするが、彼の毒を自分自身に引き受けたかのような錯覚に満足を覚えていた。


「ねぇ、フリ……」


 彼の眉間に苦しげに寄せられた深い皺すら愛おしくて、手を伸ばして触れてみたくなる。


 けれど。


「エルナ! しっかりして」


 腕が上がらなかった。

 指一本動かなかった。

 自分の意識さえ、もう、どうにもならなかった。


 けれど、幸せだった。

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