(5)
二杯目のハーブティーを入れ、向かい合ってテーブルにつく。
焼きたてのパンがあまりにも熱々で、手でちぎることができず困っている彼に、エルナはにっこり笑ってフォークを手渡した。
そして、きょとんとしている彼を尻目に、自分のパンにフォークをざくりと突き刺した。
そのままパンを口に運び、はふはふと息をつきながら噛みちぎる。
フリッツは驚いて目を見開いたが、次の瞬間笑い出す。
「あははは、そうか。そうやって食べればいいんだ」
「ちょっとお行儀が悪いけど、これが焼きたてパンのいちばんおいしい食べ方よ」
「よしっ」
彼も真似して、フォークに刺した丸ごとのパンを大きくひとかじりした。
楽しそうに短く息を吐き、口内の熱を逃す。
「うわぁ、なんて美味しいんだろう! 香ばしくて甘くて、こんなパンは食べたことないよ。ケーキなんかより、エルナのパンの方がずっといい。君はこの国いちばんのパン職人だ」
「そんなぁ、大げさよ」
「そんなことないさ。僕が保証する」
そう言って、彼は嬉しそうにもう一口頬張った。
焼きたてのパンは冷める間も無くそれぞれのお腹におさまり、二杯目のお茶もなくなった。
そろそろ、昼休みを終えた町が動き出す頃だ。
さっき焼き上がった林檎のパンを店頭に並べないと、馴染みのお客さんが来てしまう。
発酵待ちしていたパン生地も、そろそろ成形しないといけない頃合いだ。
エルナは空になった皿にカップを乗せて立ち上がった。
「ごめんなさい。そろそろ、お店を開けなくちゃ」
「ああ、もうそんな時間? 僕もいいかげん帰らないと。えぇと、美味しいパンとお茶と、この怪我の手当の分で、これで足りるかな?」
無造作にポケットを探ったフリッツが、エルナの手の上に小さな硬貨を一枚落とした。
「ありがとう」
当然、銅貨だと思って受け取ったエルナは、手の中の眩い輝きに大きく息を飲んだ。
「……って、多すぎるわ! これじゃ、お釣りも出せないじゃない」
これまで本物を見たことがなかったが、その黄金の輝きから明らかに金貨だった。
大きさを考えると、金貨の中でも小額なのかもしれないが、これ一枚で、エルナのパンなど何百個買えるか分からない。
こんな大きな単位で渡されては、店中のお金をかき集めたところで、お釣りを出すこともできない。
「お釣りなんていいよ。お昼休みの邪魔をしちゃったんだから、とっておいて」
こともなげに笑う彼に絶句する。
たかが数個のパンの支払いに、金貨をポンと渡すなんて……。
このひと一体、何者?
しばらくの間、彼の綺麗な顔を呆然と見つめていたが、はっと我に返った。
「ダ……ダメよ! こんなに大きなお金、受け取れないわ」
「でも、今、お金はこれしか持っていないんだ」
「だったら、今度来たときに払ってくれればいいから」
押し問答の末、エルナが金貨を彼の手に押し付けると、彼は困った顔で、返されたお金をじっと見つめた。
「ねぇ、この金貨一枚で、今日食べたパンは何回ぐらい食べられるの?」
「この金貨一枚は、銅貨何枚分?」
「さぁ……」
二人して首をひねる。
貧乏寄りの庶民のエルナは、高額すぎる金貨の価値が分からない。
上流階級の中でも上の方に属するであろうフリッツは、少額硬貨の価値が分からないのだ。
「いいよ。気にしなくて」
「だめよ。こんなの受け取れない」
「じゃあ、十回分っていうことにしよう」
「ありえないわ。だったら五十回分。ううん、きっともっと多いわ」
「そんなに? じゃあ、その金貨で五十回分を前払いすることにするよ。この先五十回……いや、あと四十九回、君と一緒に君の美味しいパンを食べたいんだけど、だめかな?」
「でも……」
それは、途方もない回数だ。
けれども、お金を受け取れば、彼とまた楽しい時間を過ごすことができるだと思うと、心が揺らぐ。
「お願いだから。ね、受け取って」
フリッツはとまどうエルナの手を取ると、両手で包み込むようにして金貨を握らせた。
懇願するような瞳で下から顔を覗き込まれると、エルナはもう、頷くことしかできなかった。
「よかった。今日は本当に楽しかったよ。熱々の林檎のパンもとってもおいしかった。絶対、また来るからね」
彼はもう一度エルナの手を強く握り、頬に軽く口づけると、嬉しそうな笑顔を残して工房を出て行った。
カラン、カラン……。
彼が店を出て行ったのだろう。軽やかな入り口の鐘の音が聞こえてきた。
これは夢?
一体、何が起こったの?
エルナは、頬に残された温もりを右手で押さえ、左手で金貨を握りしめたまま、へたりと床に座り込んだ。