(7)
「いやぁぁ! フリッツ!」
「我が君!」
エルナは後ろ手に縛られたまま、自分の目の前の短剣の存在も忘れて身を乗り出した。
とっさのことに、エドガルドが短剣を引いたが間に合わす、頬から耳へと浅い傷をつける。
エルナがどんなにもがいても、柔らかなソファーから立ち上がることなどできなかった。
エドガルドと反対側に倒れ込むと、そのままソファー下に顎から転げ落ちた。
「フリッツ……、いや……。わたしの、せい……で」
切られた頬が熱く、大理石の床は凍るように冷たい。
エルナはうつ伏せに倒れたまま、身動きができなかった。
「我が君、しっかりなさってください! 我が君っ!」
ゲラルトがフリッツを助け起こした。
主の身体は手足を小さく曲げたまま硬直し、ぶるぶると震えている。
「ふ……はははは。これでこの国は我が物同然。この私が、大陸全体を掌握する輝かしい未来が見える」
苦しむ皇帝と側近である実弟を足元に見下ろし、エアハルトが高らかと言い放つ。
エドガルドは邪魔になるエルナの足を蹴り退けると、この国の新たな支配者となる男にゆっくりと歩み寄った。
「おめでとうございます。今回は物足りなかったが、今度はもっと面白いことをやらせてくれるんだろうな?」
「もちろんだ。邪魔者は他にも大勢いる。これからも頼むよ」
悪党二人が、計画の成功に満足し、彼らなりの未来を思い描く。
そのとき、ゲラルトは抱きかかえている身体の強張りが緩んできたことに気づいた。
意識は混濁しているようだが、今にも止まりそうなほど乱れていた呼吸が穏やかになり、高熱を帯びていた肌から熱が引いていく。
これまで、ゲラルトが何度も目にした現象だ。
フリッツは毒物による最初のショック状態を越えたのだ。
ゲラルトは主の上着の襟元を両手で掴むと上半身を少し起こした。
そして、膝の上から硬い床へと、力任せにその身体を打ち付けた。
「フォルカー! 起きろ!」
次の瞬間。
人々の目に赤い残像が映り、エアハルトの元に向かおうとしていたエドガルドの身体が、後方に吹っ飛んだ。
「ぎゃぁぁぁぁ」
ほぼ同時に、地獄へと叩き落とされた男の断末魔が響く。
そこまできてようやく、エルナ以外の者たちに、事態が静止した状態で見えた。
「ぐ……ふっ……」
きっと、エドガルド自身には、何が起こったのか理解する暇もなかっただろう。
傷で半分塞がった左目をも見開いたまま、声にならない音だけを残して、すぐさま動かなくなった。
その無残な姿の男の上に、背中を向けて馬乗りになっていたのは、えんじ色の豪奢な上着をまとった青年。
さっきまで、側近に抱きかかえられ身体を震わせていたはずの『皇帝』だった。
「な……ぜだ」
『皇帝』は確かに、身体の自由を奪う毒を飲んだ。
即効性の成分は、あっという間に全身を巡り、エアハルトの足元で痙攣を起こした無様な姿を晒していた——はずだ。
だいたい、毒をあおっていなくても、病気がちな引きこもり陛下にあのような俊敏な動きは不可能だ。
背中から放たれた、離れた場所にまで届く冷え冷えとした殺気もありえない。
「あの男は……誰だ」
えもいわれぬ恐怖が、エアハルトの足をすくませる。
エドガルドを倒した『皇帝』は、立ち上がりざまに遺体の腰にあった長剣をすらりと抜いた。
倒れた男の左胸には、小さな墓標のように短剣が突き立てられていた。
その傷口から、『皇帝』の上着と同じ色の液体がどくどくと流れ、白い大理石の上に広がっていく。
戦慄の光景を背後に、『皇帝』は左肩に長剣の先を乗せ、獣のように低い姿勢をとった。
真っ当な剣術ではありえない、しかし、狂気じみた気迫で相手を圧倒する構え。
「まずいっ!」
エアハルトがとっさに自分の剣を抜いた。
しかし、その剣を構えるより前に、『皇帝』の両足が床を蹴った。
獣のようなスピードと、これまで浴びたことのない苛烈な殺気。
殺られる——。
百戦錬磨の皇国軍の大隊長が、剣を交える前に直感した。
しかし、『皇帝』の足はわずか数歩でがくりとバランスを崩した。
手にした凶器はエアハルトに届くことなく、音を立てて床に落ちる。
崩れた身体を支えようと、とっさに床に着こうとした手は全く用をなさない。
『皇帝』は自身の勢いを止めきれず、上半身を床に叩きつけるように、肩から落ちて床に転がった。
「フォルカー!」
ゲラルトが『皇帝』とは別の名を叫んだ。
「く……そっ!」
『皇帝』は這いつくばった姿勢から、なんとか顔を上げて、標的を睨みつけた。
その凄まじい殺気は、さっきまでと変わらない。
しかし手足はもう、自分の意思で動かせなくなっていた。
必死に上げていた顔も、すぐに力なく床に伏した。
「なんだ。おどかしやがって」
命拾いしたエアハルトは、大きく息をつくと、顎にまで伝った冷や汗を拭おうとした。
が、その目の前に、ぎらりとした銀色の輝きが滑り込んむ。
同時に、後ろ髪を力任せに引かれ、急所である喉が無防備に天を向いた。
床に転がった『皇帝』から飛び火したような、同質の殺気を背後に感じ、背筋が凍る。
「ぐっ……」
「おとなしくな、大隊長。これは、おどしなんかじゃないよ」
相手の顔は見えなかったが、天井を向かされた頭の下から女の声がした。
一瞬見えた長剣を握る手も、枯れ枝のように細い女のものだった。
華奢な女が大隊長の動きを完全に封じてようやく、壁際に控えていた二人の偽の近衛兵が、形勢が再度逆転したことを知る。
「大隊長!」
「貴様、いつの間に!」
二人は慌てて剣を構え直そうとしたものの、ほぼ同時に、同じ青い隊服を着た本物の近衛兵十数人が部屋になだれ込んできて、戦意を喪失した。
「これは……、一体」
「エアハルト大隊長がどうして」
近衛兵らは、皇帝陛下の危機を知らせてきた全身ボロボロのパン工房の女が、一瞬のうちに、たくさんの勲章が下がる軍服の大男を拘束していることに気づき、呆然となった。
彼らは、少し離れた床の上にこちらに背を向けて倒れている、華やかなえんじ色の上着を着た人物にも気づく。
「陛下! ご無事ですか!」
「一体何が……」
彼らが、皇帝に駆け寄ろうとすると、ゲラルトがその前に立ちふさがり「来るな」と片手を前に伸ばして制止した。
「陛下は皇国軍大隊長エアハルトに毒を飲まされた。この場は皇帝陛下の命により、陛下に代わって私が指揮を執る。まずは、エアハルトと、そこの偽の近衛兵二人を大逆罪で投獄せよ。そして、『大いなる青』採掘現場の警備担当兵、並びに採掘工長ヘルツォーク公爵を取り調べのため捕縛」
ここまで一気に言うと、ゲラルトは言葉を切った。
わずかな間俯いて唇を噛み、それから毅然と顔を上げる。
「摂政カルヴィーン卿も、先代皇帝陛下暗殺の大逆罪の疑いで直ちに拘束。カルヴィーン卿が子ハーラルトは疑惑が解けるまで自宅軟禁とする」
エアハルトの犯した罪は、近衛兵たちの目に現行犯として映っていたから、驚きはあっても疑いの余地はなかった。
しかし、その後に続いた摂政の名と罪名に、その場が凍りついた。
「まさか……」
「カルヴィーン卿が……?」
ゲラルトは近衛兵に、とまどう時間を与えない。
続けさまに指示を出す。
「今すぐ、侍医のカールハインツ翁を呼べ。近衛兵は扉の外に警護として二人置き、全員退室せよ。侍医以外、誰一人、この部屋に近づけてはならない。即刻、罪人の確保に動け! 全員、すぐさま退出せよ!」
普段は温厚で、頼りない雰囲気の皇帝の側近の、別人かと思うほどの迫力に押され、近衛兵らは姿勢を正した。
「はっ! 直ちに!」
彼らは拘束したエアハルトの背に剣を突きつけながら、ばたばたと部屋を出て行った。




