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(6)

「私にとっては、まだまだ幼いハルトヴィヒ殿下の方が扱いやすい。リーゼを皇妃とするには年頃もちょうど良い。ですから、貴方様にはハルトヴィヒ殿下に皇位を譲っていただきたいのです。穏便に」


 雇い主の言葉とは正反対に、エドガルドはエルナの髪を鷲掴みにして乱暴に引き寄せると、彼女の細い首に刃をあてがった。


「……ゃ」


 エルナは小さく悲鳴をあげたものの、それ以上は抵抗しなかった。

 髪を引っ張られて痛いはずなのに、喉元に短剣をつきつけられて怖いはずなのに、恐怖と戦いながら小さく首を横に振り、涙を浮かべた強い瞳で「言いなりにならないで」と必死に伝えてくる。


「これのどこが穏便なんだ!」

「穏便だろう? この娘にはまだ、傷一つつけてはいないんだからな。あとはあんた次第で、うまく穏便に収まるさ」 

「さあ、皇帝陛下」


 フリッツは決断を迫るエアハルトに向き直った。


「ハルトに皇位を譲るという書類に、署名でもすれば良いのか」

「それではいけませんね。貴方様は先代皇帝陛下の血を受け継いで、大変聡くていらっしゃる。引きこもりから回復しつつある貴方様がこのまま皇位を退かれても、いつか敵対勢力に担ぎ出されるでしょう。ですから」


 エアハルトは上着の内ポケットから小瓶を取り出した。

 そして、瓶の首をつまむと軽く振って中身を見せた。


「この薬を飲んでいただきたい」


 白く濁った液体がたぷりと揺れる。


「毒……か」

「ええ。ですが、命を奪ったりまではいたしませんよ。全身の機能が麻痺し、言葉もまともに話せなくなる程度の薬です。これであなた様には、一生、引きこもっていただきます。本当は、食事に少しずつ毒を盛りたかったのですが、毒味をするのが役立たずとはいえ実の弟では、どうしようもなくて。こうして、直接お渡しすることにしたのです」

「その薬を飲んで、ハルトに皇位を譲れば、彼女を解放してくれるのか」

「だめっ! やめて、わたしはいいの! そんな薬、飲んじゃだめ!」


 エルナが刃の向こうから叫ぶ。

 彼女の健気な声にフリッツの心は乱れる。

 彼女の腕だけを拘束し、口を自由にさせているのはそんな効果を狙ってのことだろう。

 エアハルトは皇帝の最愛の女性を一瞥すると、残酷な笑みを浮かべた。


「そうですねぇ、彼女は殺しませんよ。しかし、この秘密を知ってしまったからには解放することはできません。身体の自由がきかなくなった貴方様のお世話係として、お側において差し上げましょう」

「だめだ! その条件は飲めない。彼女を自由にしてやってほしい」


 言いながら、自分の望みは決して叶えられることはないと分かっていた。

 皇国軍大隊長と摂政が犯した大罪を知った者に、自由が与えられるはずがない。

 身体が不自由になった自分と共に、一生監禁されてしまうのだ。


「なぜです? 皇族である貴方様は、卑しい平民のパン職人とは、一緒になることなどできないのですよ。それを一生一緒にいられるようにして差し上げるのです。喜ばしいことではないですか」


 どれほど強い毒かは分からないが、おそらく、二度とベッドから起き上がることができなくなるだろう。

 意思疎通も無理かもしれない。

 排泄の面倒まで彼女に頼ることになるかもしれない。

 自分の、お荷物でしかない身体を彼女にさらすことには我慢できない。


 なにより、彼女にそんな苦労をさせたくない。


「そんなことは望まない。ならば、いっそ私を殺せ」

「そちらをお望みになるのなら構いませんが、それでは、あの娘を生かしておく理由もなくなりますね」


 エアハルトが冷たく言い放った。


「そう……だな」


 八方塞がりなのは、分かっている。

 薬を飲めば、彼女は一生自分に囚われる。

 自分が死ねば、彼女の命も絶たれる。

 どっちに転んでも最悪なのだ。

 もう、自分の力ではどうすることもできない。


 だったら。

 どうする——。


 フリッツは俯いた姿勢から少しだけ顔を上げ、横目でちらりと側近を見た。


「ゲラルト。後を頼む」

「我が君」


 主の強い決意を受け取ったゲラルトは小さく頷いた。

 フリッツは背筋を伸ばすと、無言でエアハルトに右手を差し出した。


「だ……、だめ! フリッツ! 飲まないで」


 エアハルトは小瓶のコルク栓をはずし、うやうやしい態度でそれを皇帝に手渡した。


 一口で飲み干せる程度の液体が、自分とエルナと周囲の人々の運命をガラリと変える。

 この国の行く末までも——。


「お願い、やめて! 飲んじゃだめ! フリッツ!」


 静まり返った中、エルナの悲痛な叫び声だけが響く。

 彼女がどれほど辛い思いをしているのか。

 どんな顔でいるのか。

 そんな彼女を見るのが怖くて、手の中の小瓶をじっと見つめた。


「い……や。やめて。やめて……」


 そして。


「だめーっ!」


 フリッツは白く濁った液体を、一気に喉に流し込んだ。


 高熱で焼かれた細かな大量の針が、喉をすり下ろしていくような感覚。

 悪魔の液体は体の中央で大きく渦巻き、破裂するように全身に散らばっていく。


 命までは奪わなくとも、それ以上の残酷な結果をもたらす劇薬だ。

 空の小瓶が床に落ちて音を立て、そのまま転がっていった。


「く……っ。は……」


 全身がバラバラに引きちぎられ、自分の意思と切り離されていくように感じる。

 首から下の身体の所在が分からなくなっていく。


 フリッツはたまらず、大理石の床に崩れ落ちた。

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