(4)
重厚な扉を勢いよく開くと、真っ正面に彼女の姿があった。
「エルナっ!」
「ダメっ、フリッツ! 来ないで!」
彼女は後ろ手に縛られ、入口を向くように位置を変えたソファーの真ん中に座っていた。
両手以外に戒めはないようだが、隣に座った黒づくめの大柄な男の手には、いつでも彼女を傷つけることができる短剣が握られていた。
「我が君! ご無事ですか!」
続いて部屋に飛び込んで来たゲラルトも、フリッツの隣でぎくりと足を止めた。
「お願い、二人とも逃げて!」
「よぉ、遅かったな。待ちくたびれたぜ」
エルナの隣の男が、ゆっくりとフリッツに顔を向け、口元を歪めて笑った。
額から左目を半分塞ぐように走る傷。
黒髪、黒い瞳、浅黒い肌の異国の男。
ゲラルトから聞かされた、湖で自分とエルナを襲ったという男の人相と一致した。
「エドガルド……か」
語尾に微妙に疑問符が付くフリッツの言葉に、敵は怪訝そうに眉を寄せた。
エドガルドと『皇帝』は、湖で直接顔を合わせている。
しかし、フリッツ自身には幼い頃に襲われた記憶すらない。
エドガルドと直接向かい合ったのは、初めてと言ってもいい。
先代皇帝である父親を殺され、自分自身も傷つけられた憎しみや復讐心は、大部分がフォルカーの中にあるから、フリッツの中では人ごとのように薄かった。
ただ、エルナが敵の手にあることに激しい怒りを感じていた。
しかし、敵を刺激すれば彼女をさらに危険にさらしてしまうかもしれない。
自分自身を抑えることに長けたフリッツは、二、三回ゆっくり呼吸して気持ちを落ちつかせた。
「その女性を放してくれないか。彼女は関係ない。何が目的だ。まずは、お前の要求を聞こうではないか」
胸を張り顎を上げ、皇帝としての威厳を見せる。
しかし、その落ち着いた様子は、エドガルドが思い込んでいる皇帝像とは正反対だった。
「なんだ、なんだ。そのしょぼい反応はよぉ? まだ、傷が痛むのか。せっかく、手加減してやったのに、たったあれしきで、毒気も殺気もすっかり抜けちまったのかよ!」
敵はいらついた様子を見せると、エルナの首に腕を回して乱暴に引き寄せ、手にした短剣を首元に当てがった。
「これでも、そんなすました顔でいられるのかよ!」
「エルナっ!」
エルナは恐怖で体がすくみ、悲鳴すらあげられなかった。
肩をすくめ、目を固く閉じて恐怖に耐える。
「やめろ! エルナを放してくれ」
「その皇帝ぶった顔がムカつくんだよ。早く本性を出せや! この娘の顔が切り刻まれてもいいのかよ!」
「やめろーっ!」
最愛の女性に凶器をつきつけられての挑発には、さすがにフリッツも冷静ではいられなかった。
思わず駆け寄ろうとしたところを、ゲラルトが腕を力いっぱいに掴んで止めた。
「だめです! 我が君」
「フ……フリッツ。わたしのことは……いいから、早く逃げて」
「そんなこと、できるはずがないだろう!」
恐怖に震えながらも、健気に声をあげる彼女をなんとしても助けたい。
しかし、短剣を突きつけられているエルナを前に、フリッツにはなす術がなかった。
両手を震えるほど固く握りしめ、唇を噛んで相手を睨みつけるだけだ。
しかし、彼の精一杯の怒りや気迫も、背筋をぞくりと冷やすフォルカーの殺気とは比べ物にならなかった。
敵は落胆した顔を見せた。
「一体、どうなってやがる。お前はもっと、ギラギラした奴だったはずだ。……やっぱり、身代わりがいるのか」
「身代わり?」
「皇帝は野獣のような男だから気を抜くなと、あの男にいくら言っても信じてもらえなかったが……。やはり、そういうことだったのか」
エドガルドは一人で納得する。
彼は、過去に刃を交えた相手と目の前の男が、全くの別人であることを見抜いていた。
しかし、さすがに同じ身体の中に別の人格がいるとは思いもしない。
容姿の似た腕の立つ者を、皇帝の身代わりにしていると考えるのは自然なことだった。
今、この場にいるのは、軟弱な本物の皇帝。
自分と同じ臭いがする血の気の多い『皇帝』ではない。
そう思い込んだせいで、敵の警戒は緩む。
「つまんねぇな。やっとあのガキを叩きのめせると思ったのに」
退屈そうに言いながら、目の前の相手では警戒するだけ無駄だと感じたのか、エルナの首を捉えていた腕を解いた。
エルナはとっさにエドガルドから距離を取ろうと体をよじったが、「勝手に動くんじゃねぇ!」と凄まれ、目の前に短剣をちらつかされた。
「やめろ!」と、フリッツが叫んでも、敵は「おぉ、怖い怖い」とおどけて見せるだけで、まともに取り合おうとはしない。
どうやら今すぐ、ことを起こすつもりはないらしい。
時間を稼いでいるのだろうか。
エドガルドはやる気がなさそうにあくびをしているが、隙は全く感じられない。
こちらが下手に動けば、瞬時にエルナを盾に取るだろう。
こんな難しい状況に対応できるのはフォルカーだけだ。
しかし、自分の意思で人格を入れ替えることはできない。
フリッツは半分祈るような気持ちで、頭の中でフォルカーに呼びかけているものの、全くの無駄だった。
こう着状態をなんとかしようと、ゲラルトが口を開いた。
「あの男とは誰ですか。誰がお前に命じたのですか」
しかし、相手はにやにやするだけで答えない。
「何が目的だ」
「そら、決まってるだろう? 皇帝陛下、あんたが邪魔なんだってよ」
フリッツの質問には軽い口調で応じた。
「私を殺すつもりなのか」
「いや。俺は殺した方が手っ取り早くていいと言ったんだが、二代続けて暗殺されたんじゃ体面が悪いんだとよ」
「同じ人物の命令で、お前が父上も殺したということか」
「さぁてね」
エドガルドは適当にはぐらかす。
国の体面を気にするあたり、おそらく単純な恨みによる犯行などではないだろう。
黒幕は権力を欲する、国の中枢かその近くにいる人物の可能性が高い。
この国の実質的な権力者は、長年、摂政を務めるカルヴィーン卿だ。
ゲラルトの実父でもある彼は、長男や次男も国の重責に就け、一大勢力を誇っている。
当然、そんな摂政に反感をもつ大臣や有力貴族は多く、フリードリヒの腹違いの弟であるハルトヴィヒや、大臣を務める従兄弟らをかつぎ出したい勢力もある。
これまで散々検討を重ねた人物を、順番に思い浮かべる。
けれども、これまでと同じように結論は出なかった。
「私の命を取るのでなければ、どうするつもりだ」
「それは、俺が説明しなくても……ほぉら、おいでなさった」
敵の男が半分塞がれた左目をふっと細めた。
同時に、背後の扉のノブががちゃりと鳴る。
フリッツとゲラルトが反射的に振り返ると、開かれたドアから思いがけない人物が姿を現した。




