(3)
閣議を終えた皇帝は、立場上、誰よりも先に議場を退出する。
早く部屋に戻りたいとはやる気持ちを抑えながら、フリッツは大きく開かれた扉の間を、威厳を持って通りぬけた。
側近であるゲラルトも、すぐ後ろからついて出る。
カルヴィーン卿と数人の大臣、扉を守っていた衛兵らに見送られ、二人はしばらく無言で通路を歩いた。
「カルヴィーン卿があんまりせっつくから、どれだけ重要な閣議かと思ったけど」
通路の角を曲がったところで、フリッツが口を開いた。
「たいした話ではありませんでしたね。今回はお休みが長すぎましたから、いいかげん人前に顔を出さないと、皇帝としてまずいということなのでしょう」
今日は久々に皇帝が出席するということで議題を変更したらしく、内容のほとんどが、来年春の即位十年を祝う式典の進捗状況の確認だった。
「しかし、舞踏会か……。気が重い話だな」
フリッツが大きくため息をついた。
式典の翌日からは、周辺諸国の姫君や有力貴族の令嬢を大勢招待しての舞踏会が連日開催される。
独身の皇帝が開催する舞踏会は必然的に、お妃選びの場となるのだ。
それは、自分の娘を皇妃にしたいカルヴィーン卿に反発したフレデリクの案であったが、フリッツも同意したこと。
招待状は既に発送済で、返事も届き始めているというから、今さら計画を変えることはできない。
「我が君がその案を了承した時、彼女にはまだ出会っていらっしゃらなかったのですか」
ゲラルトが声を潜めた。
「いや、最初から諦めていたんだ。だから、国のためになるんだったら、相手は誰でも構わなかった」
「……そうでしたか」
しばらく小声で話しながら歩き、皇帝の私室に向かう渡り廊下の入り口が見える場所まで来る。
その場を守る近衛兵が、皇帝と側近の姿に気づき、顎を上げ、びしりと姿勢を正した。
いつもと同じ光景であるが、フリッツは妙な違和感を覚えた。
「どうかされましたか?」
「……いや」
近衛兵にもう少し近づくと、その違和感の正体がはっきりした。
「近衛兵が違う」
フリッツは前を見据えたまま、ゲラルトに小声で伝えた。
「まさか」
閣議に出かけたときは、長くフリードリヒに仕える信頼できる近衛が、その場を守っていた。
その時、軽く言葉を交わしたから間違いない。
彼らの交代時間はもっと先で、交代相手もよく知った近衛兵だ。
しかし今、警備に立っている二人には全く見覚えがなかった。
近衛兵はゲラルトが志願者を厳選し、一年程度の試用期間をおいて実力と忠誠心を見定めた後、皇帝自らが叙任する。
少数精鋭部隊だから顔を忘れることはありえないし、最近見習いとして採用した者もいないのだ。
「あなた方は何者ですか。ローマンとエルマーはどうしたのです?」
ゲラルトが主を背に庇うように前に出て、二人に問いただした。
「はっ。彼らは急な用事ができましたため、持ち場を交代いたしました」
二人のうちの、少し年長に見える男が答えた。
しかし、皇帝を守るという任務以上に重要な私用などありえないし、勝手に持ち場を離れることなど許されない。
ましてや、今、目の前にいるのは、全くの見ず知らずの男たちだ。
「見え透いた嘘をつくな。だいたい、お前たちは何者か!」
ゲラルトの口調が厳しさを増した。
しばらくにらみ合いをしているうちに、フリッツの目が兵の背後の壁に止まった。
真っ白でなければならない壁に、大きく何かを拭い取ったようなしみがある。
色は茶色……いや、赤だ。
まるで、血液を拭き取った跡のような。
まさか!
はっと辺りを見回すと、大理石の床にも拭き残したような赤い筋が残っていた。
自分が部屋を開けている間に、この場所で、人の血が流れるような惨劇が起きたことは明らかだった。
「エルナっ!」
前方に見える扉の向こうの部屋にいたのは、彼女たった一人。
自分がいない間に何が起こったのか、頭の中を整理する余裕はない。
しかし、彼女が危険にさらされていることは、瞬時に分かった。
フリッツは近衛兵の隊服を着た二人の男の間を抜けて、扉に向かって走り出した。
偽の近衛兵らはにやりと笑っただけで、彼を止めようとはしなかった。
「だめです! 危険です、我が君!」
ゲラルトが声を張り上げても、フリッツが止まるはずがない。
出遅れたゲラルトが背後の殺気を感じて振り返ると、近衛兵が退路を塞ぐように立ち、腰の剣に右手をかけていた。
ゲラルトの腰にも主を守るための長剣が下がっているが、この屈強な男二人に太刀打ちできるほどの腕はない。
男の一人がゆっくりと剣を抜く。
「お前も早く行け! ただし、その腰の獲物は置いていくんだな」
渡り廊下の向こうに目を向けると、フリッツの姿が扉の向こうに消えたところだった。
この通路を封鎖されては、皇帝の私室は大きな行き止まりになってしまう。
これは、明らかに罠だった。
「くそっ!」
ここで彼らと争うことで、主を一人にする訳にはいかない。
ましてや、自分がここで倒されては、元も子もない。
ゲラルトは腰の長剣をはずして傍に投げ捨てると、丸腰で主の後を追った。




