(2)
部屋の隅には、大理石にしか見えない木製の床がある。
その下の秘密の通路にうまく逃げ込めれば、敵も気づかないかもしれない。
けれどそこは、縄梯子を使わなければ降りられない、闇に続く垂直の深い穴。
マヌエラほどの運動神経がなければ、ここに逃げるのは自殺行為だ。
わずかな間悩んだエルナは、煌びやかな装飾が施された衣装をかき分け壁まで進んだ。
そして、丈の長い上着の後ろを選んで身を隠すと、息をひそめた。
そこへ突然、寝室の扉を蹴破る大きな音。
「ひ……っ!」
思わず漏れてしまいそうになる悲鳴を、両手で口を押さえて閉じ込める。
心臓の音が、寝室まで聞こえるのではないかと思うほど激しかった。
冷たい汗が背中を流れ落ちる。
息をすることすら怖くて、目の前が暗くなっていく。
敵は今、寝室を探っているはずだ。
なのにやはり、全く音がしなかった。
扉を開けるときだけ派手な音を立て、相手を精神的に追い詰めているのだ。
エルナはかたかた震える歯を食いしばりながら、自分の心臓の音を数えていた。
そうでもしないと、気を失ってしまいそうだった。
誰か、助けて……。
もともと、逃げ場などどこにもないのだ。
敵はいずれ、自分を見つける。
その前に、誰か、早く——。
その思いもむなしく、衣装部屋の扉のノブがかちゃりと音を立てた。
直後、扉がふっとんだかと思うほどの破壊音が響く。
「これで行き止まりだなぁ。お嬢さん」
エルナの心臓がひときわ大きい鼓動を刻んだ。
敵の目的はフリッツじゃなくて、わたし——?
敵はエルナがこの部屋に保護されていることも、今、この時間一人でいることも全て把握して、エルナだけを標的に押し入ってきたのだ。
そして、その向こう側にある真の標的はもちろん、この国の皇帝であるフリッツだ。
「どこに隠れているか当ててやろうかぁ?」
聞き覚えのある掠れ気味の野太い声。
敵は湖で襲ってきた男に違いない。
左目に傷がある、黒髪の異国人風の不気味な男だ。
これまで物音を立てないようにしていた敵は、衣装部屋に踏み込んでからは、足音をあえて響かせながら歩く。
「いくら身を隠したって、素人のお嬢さんには、怯えた気配は隠せねぇんだよ!」
いたぶるような足音が、何の迷いもなく、衣装の陰に潜むエルナに向かって近づいてきた。
誰か、助けて!
エルナは胸元のペンダントを握りしめて、息を殺した。
決して、捕まってはいけない。
しかし、相手はエルナの居場所を正確に捉えている。
壁を背にしたエルナはこれ以上、隠れることも、逃げることもできなかった。
「ここだ!」
あっという間に、目の前を塞いでいた衣装が一度に薙ぎ払われた。
「あ……あぁ……」
視界が大きく開けた中、上半身を折り曲げてこちらを覗き込んでいたのは、予想通りの男だった。
男は抜き身の長剣を自分の肩に乗せて、にいと口元を歪ませる。
「見ぃつけた」
「…………や。来ない……で」
怯えるエルナに向かって、男が半歩踏み出したとき、その背後でがたりと物音がした。
はっと後ろを振り返った男の頬に赤い線が刻まれ、エルナが背中を預けていた壁の上部に小さなナイフが突き刺さる。
ほぼ同時に高い金属音が響いて、もう一本のナイフが大理石の床に落ちて跳ね返った。
間をおかず、人型に着せられていた毛皮の縁取りの豪華なマントが、男に投げつけられる。
「エルナ、逃げな!」
男の向こうで、長めの短剣を構えていたのは、パン工房のお仕着せ姿のマヌエラだった。
彼女は、飛んで来たマントを剣で払いきれずもたつく敵に向かって、猛然と切り掛かっていく。
しかし、彼女の刃はすんでのところでかわされた。
「ほぉ。こんな女まで飼ってやがったのか。あの皇帝陛下様は」
「ふうん。あんたが、エドガルドかい?」
「そうだ」
エドガルドは右手一本で長剣を構え直すと、頬の傷を左手で撫でた。
指の通った跡に赤い血が塗り広げられ、すさまじい形相でにたりと笑う。
マヌエラはさっと身を引いて間合いを取ると、針金製の人型の脚を手に取った。
それを身体の前で武器のように斜めに構える。
その間、わずか数秒。
逃げろと言われても、エルナはその場から僅かも動けなかった。
エドガルドは余裕の様子で、マヌエラに向かって一歩踏み込んだ。
「はん。ご立派な武器だなぁ」
からかい半分に突き出された長剣を、マヌエラが人型で受け止めると、人型の肩の部分があっさりと破壊された。
「くっ……」
二度三度と凄まじい速度で繰り出される剣を、人型を使って必死に防御する。
しかし、針金製の人型は重い剣の前にはあまりにももろく、あっと言うまに支柱と三又の脚だけになってしまった。
「おや、すっかり壊れてしまったねぇ」
敵の軽口にマヌエラがふっと笑った。
「ありがとう。これで動きやすくなったよ」
彼女の言葉が終わる前に、空を切り裂くようなが響き、人型の脚が男を襲った。
エドガルドがとっさにのけぞって避けると、マヌエラは振り回した人型の支柱を床に立て、それを支えに鋭い蹴りを繰り出す。
敵は軽業師のような動きに翻弄され、腹部に一撃を食らった。
「き……さま……」
エドガルドは後方に数歩よろめいた後、両足を踏みしめ長剣を両手で構えた。
傷に半分塞がれた濁った左目が大きく見開かれ、強烈な殺気が全身から吹き上がる。
「女だと思って手加減してやったが……」
その言葉を最後まで言わせず、マヌエラは姿勢を低くして支柱を大きく振り回した。
三つに分かれた脚が、今度は男の脛を狙う。
エドガルドはその大きな図体にも関わらず、それを易々と飛び越えると同時に突進してきた。
マヌエラが体をひらりと一回転させ、支柱を頭上に構えた。
がつんと鈍い音が響いて、支柱の中央が折れ曲がる。
長剣はマヌエラの頭には届かなかったが、その重い衝撃に耐えきれず足元が崩れた。
「きゃぁぁぁっ! マヌエラ!」
振り下ろされた剣は、支柱を滑り落ちて大理石の床に弾かれる。
そのわずかな隙を見て、マヌエラは傍に落ちていた人型の残骸を相手に投げつけ、後方に飛び退いた。
その手には最初に使っていた長めの短剣が握られていた。
ここで攻守が完全に入れ替わった。
体格の大きい男が長剣を、体の小さい女が短剣を握る。
奇襲の手を出し尽くした今、明らかにマヌエラが不利な状況になった。
「さぁ、お遊びはここまでだ」
エドガルドの挑発に、マヌエラの顔が苦々しく歪んだ。
「どうだ。逃げてみろ」
敵は間合いを充分に取って、剣で素早く突いてくる。
必死に防御するマヌエラを、口元に愉悦を浮かべながら、猛獣が子うさぎを弄ぶように浅い攻撃を仕掛けていく。
「くそっ! 性悪だな、あんた!」
「ありがとよ。それは褒め言葉だ」
「それとも、とどめを刺す度胸がないのかい!」
剣先で削がれた彼女の金色の髪が宙に舞う。
パン工房の制服がところどこを切り裂かれ、のぞいた素肌が血に染まっていく。
「やめて、もうやめて!」
エルナが必死に叫んだ。
このままではマヌエラが死んでしまう。
「そうだな。じゃあ、そろそろ終わりにしよう」
鋭い切っ先がマヌエラの左胸を狙って、勢いよく突き出された。
「うわぁぁぁっ!」
「きゃーっ!!」
狭い室内に二人の女の悲鳴が響いたが、剣を握るエドガルドの手には、全く手応えが伝わって来なかった。
「なにっ!」
女殺し屋の姿はそこにはなかった。
彼女の短剣がかつんと音を立てて、大理石の床に落ちた。
彼女が消えた場所には、床を四角に切り取った穴があいていた。
秘密の通路の出入り口が、散らばった衣装で完全に隠れてしまっていたのだ。
「しまった!」
男は慌てて穴を覗き込んだ。
穴の底から吹き上がってくる冷たい風が、男の前髪を浮き上がらせる。
「かなり深いな。そういや、ここは……三階だったか。この高さから落ちたんなら無事ではすまんだろう」
そうつぶやきながら、男は床に転がったマヌエラの短剣を拾い上げた。
「忘れものだ」
短剣を下向きに握った右手を、穴の上に差し出して、伺うようにエルナを振り返る。
「あ……。や……っ、やめて」
あの穴がどれほどの高さがあるのか、エルナは身をもって知っている。
縄梯子なしにその穴を行き来できるマヌエラだが、さっきは怪我を負った状態で、何の心積もりもないまま落ちたのだ。
敵の男が言う通り、無事でいられるはずがない。
男の手の凶器は、そんな彼女にとどめを刺すことになるだろう。
「やめて……お願いだから。やめて」
エルナの震えながらの懇願に、男は満足そうに歪んだ笑みを見せた。
そして、にやついた表情を変えることなく、短剣を握っていた手を開いた。
残酷な切っ先は一瞬のうちに、穴へと吸い込まれていく。
「いやぁぁぁ! マヌエラっ!」
エルナは衣装や人型の残骸が散らばる床を必死で這っていき、穴の中を覗き込んだ。
「マヌエラっ! マヌエラぁー!」
どれだけ叫んでも、穴の底から返事はなかった。
エルナの絶叫が、石壁に反響するだけだった。




