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青き貴石の輝く場所(1)

 フリッツの腹部の傷は、動くと少し引き攣れた痛みがあるようだが、普段の生活にはほとんど支障がなくなった。

 体調不良を隠れ蓑にした引きこもり生活も十日以上になる。

 そろそろ部屋から出なければならないと思っていた矢先に、カルヴィーン卿から要請があり、閣議に顔を出すことになった。


 皇帝として人前に出るのは、フリッツかフレデリクの人格に限られる。

 フォルカーには皇帝としてのふるまいはできないし、ゲラルトを倒して行方不明になるため、表向きには体調不良の理由で欠席となる。


 この朝、目覚めたのは、たまたまフリッツだった。


「ああ。もう、時間だ」


 着替えを終え、ゲラルトを伴って寝室から出てきた彼の姿に、エルナは息を飲んだ。

 ダークブロンドの髪はきれいに撫で付けられており、いつもより大人っぽく見える。

 少しでも顔色が良く見えるようにと羽織ったえんじ色の上着の高襟には、黒と金糸で複雑な刺繍が施されている。

 首元にふっくらとまとめられたタイの中央には、硬貨ほどの大きさの、深い青に輝く宝石が留められていた。


「フリッツ、それって……」


 エルナの視線が、ブラウヒューゲルの権威の象徴である『青を抱く薔薇』のブローチに止まったことに気づき、フリッツとゲラルトが顔を見合わせた。

 エルナは自分の首にかけられている細い鎖を手繰り寄せた。

 青い石の飾りのペンダントトップを掌に乗せると、彼のブローチと見比べる。


「やっぱり!」


 エルナのものは繊細な金細工の薔薇の花びらを含めても、自分の小指の先ほど大きさしかない。

 けれど彼のブローチと全く同じデザインだった。

 大きさ以外に違う点を挙げるとすれば、彼の胸元の青い輝きは、華やかで堂々としているが、エルナのペンダントは清楚で慎ましい印象を受けること。

 そして、エルナの石が、光を閉じ込めたような猫目石であることぐらいだろうか。


「あ……あぁ、エルナ。これはね、この国の……」

「知ってるわ。『大いなる青』という宝石でしょ。これ、フリッツとお揃いだったんだ!」


 どう説明しようかと口ごもったフリッツは、また側近と顔を見合わせた。


「嬉しい……」


 エルナは胸元を両手で押さえた。

 自分の手の下の小さな存在に、特別な幸せを感じていた。

 今でも、このペンダントは高価すぎて、平民の自分にはふさわしくないという思いがある。

 それでも彼が、自分と同じデザインのアクセサリーを、わざわざ用意してくれたという事実が嬉しかった。


「あぁ、もう。君って人は」


 俯くエルナの視界に、磨き上げられた黒い靴のつま先が入ってきた。

 ふわりと、背中に彼の手が触れる。


「今はちゃんと服を着てるからいいよね?」

「フリッ……ツ?」


 顔を上げようとしたが、彼が近すぎて無理だった。

 彼のブローチの黄金の花びらの一枚一枚がはっきり見えたと思ったとき、前髪にもぐりこむように、額に柔らかな感触が触れた。


「え?」


 少し離れた彼が、柔らかな笑みを浮かべた。

 長いまつ毛に半分隠されたエメラルドの瞳の美しさに、思わずどぎまぎしてしまう。


「じゃあ、行ってくる。なるべく早く帰ってくるから、いい子で待ってて」


 額の同じ場所を人差し指でちょんとつついてから、彼はエルナの横を通り過ぎて行った。


「い、行ってらっしゃい。あまり無理をしないでね」


 エルナの心配に「ん」と笑って振り返り、彼は側近と共に部屋を出て行った。


 ぱたりと扉が閉まると、エルナは広い部屋に取り残された。

 下手に座ると立ち上がれなくなるほどふわふわのソファーに、くたりと腰を下ろす。

 指先でそっと額に触れてみると、それだけで、身体中の血液が顔に集まってきた気がする。

 額も頬も耳も熱い。


「やだ、おでこにキスされたくらいで。湖ではもっと……」


 あのとき唇に触れた感触と熱を思い出すと、さらに身体が熱くなり、「大失敗した」とソファーに深く沈み込んだ。

 豪華が刺繍が施されたクッションを抱きしめて、しばらくじたばたしていると、ふと、自分が独りきりでいることに気づく。

 自分以外誰もいない部屋をぐるりと見回した。


 これまで、この部屋には自分以外の存在が必ずあった。

 フリッツは、フレデリクの人格ときもあるにしろ、必ずいたし、ゲラルトも一日の大半をこの部屋で過ごす。

 侍医のカールハインツは、表向きには重病となっていた皇帝陛下の治療のため、実際には何もすることがなくても日に数回やってきた。

 エルナの着替えや差し入れを持ったマヌエラも、秘密の通路を通ってちょくちょく顔を出した。

 全員が同じ秘密を共有しているせいか、皆といるときは居心地良く思えるようになっていた。


 けれど、自分一人になってしまうと、ただでさえ広い部屋がより広く見えた。

 頭上に下がる豪華なシャンデリアや、凝った彫刻が施された飾り棚、ふかふかの絨毯などの贅を凝らしたしつらえにも慣れたと思っていたのに、今は、自分だけが異質なみすぼらしい存在に感じる。


 心細い。

 寂しい。

 辛い。


「早く帰ってこないかな」


 彼が出かけてから、まだそんなに時間は経っていない。

「なるべく早く帰る」と言っていたが、戻るのはまだ先になるだろう。


 深いため息をついてクッションに顔を埋める。

 そうやって視界を塞いでしまえば、寂しさは少しは和らぐと思ったのだが、その分、聴覚が敏感になってしまう。

 彼らの足音が聞こえないかと、無意識のうちに耳をすませてしまうが、聞こえてくるのは窓を叩く北風の音だけ。

 皇帝の私室は壁や扉が厚く頑丈に作られているから、扉の向こう側の物音はほとんど聞こえない——はずだったのに、エルナの耳が微かな音を捉えた。


「あれ?」


 一瞬、フリッツたちが戻って来たのかと期待したが、どうも違う。

 ほんの僅かしか聞こえないのに、何者かが激しく争っていると分かる、不穏な音だ。


「なに……が、起こっているの」


 抱えていたクッションをソファーの座面に放り出すと、物音を立てないように気をつけながら扉に近づいた。

 耳を扉に当てて、外の様子を伺う。


 聞こえてきたのは、数人の男の怒声と悲鳴、重いものがぶつかり合うような音。

 そして、剣の交わる金属音。


 ぞくりと、背筋が冷えた。


 皇帝の私室の前で、何者かが剣で斬り合っているのだ。

 そこでは、二人の近衛兵が警備をしているはずなのに。


 逃げなきゃ!


 敵の狙いはきっとフリッツだ。

 幸い彼はここにはいないが、自分が捕まっても彼が窮地に陥ることになる。


 エルナは慌てて寝室に駆け込んだ。

 焦りながらも音をさせないように慎重に扉を閉めると、ほぼ同時に、別の扉が荒々しく開かれる音が聞こえた。

 何者かが皇帝の部屋に押し入ってきたのだ。

 エルナは身を隠す場所はないかと、ぐるりとあたりを見回した。

 重厚な天蓋に囲われた大きなベッドが目に入ったが、そこは一番最初に疑われる場所だろう。

 隠れたところで時間稼ぎにもならない。


 敵は隣の部屋にいるはずなのに、物音は何一つ聞こえない。

 いつ寝室の扉が開かれるか分からないその無音が、エルナを追い詰めていく。

 エルナは隣の衣装部屋に逃げ込んだ。

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