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(10)

 寝室に取り残されたエルナは、グラスを元の位置に戻すと、乱れたベッドを整えた。

 それ以上は、何もすることがない。

 ベッドの前の椅子に腰を下ろしたものの、寝室はフリッツあるいはフレデリクの部屋だという認識が強くて、主がいなくては居心地が悪い。

 おまけに、重傷のフリッツがぐったりとベッドに横たわっていた姿を思い出してしまい、不安を煽られる。


 これ以上、一人でここにいるのは辛すぎる。


 エルナは椅子から立ち上がると、隣の部屋に向かった。


「あれっ? ……いつの間に」


 リビングにはさっきまで蝋燭一本の明かりしかなかったのに、同じ燭台にさらに三本の蝋燭が灯されていた。

 窓から遠い部屋の角にも、小さな明かりがある。

 開け放たれていた窓は閉じられ、暖炉には赤々と火が燃えていた。


 きっとそれは、深夜一人で取り残されるエルナが少しでも心細くないように、そして寒くないように整えられたものだ。

 ゲラルトの気遣いに感謝しながら、エルナはソファーの上で膝を抱え、毛布にくるまった。


「早く戻って来て」


 今は危険なことをしないと、フォルカーは言っていた。

 けれど、エルナにとっては、窓から出て行っただけでも信じられないほど危険なことだったから、全く安心できなかった。


 暖炉の火が爆ぜる微かな音しか聞こえない。


 火は赤々と燃えているはずなのに、しっかりと毛布を巻きつけていても、背中や肩が寒かった。

 どうしても、恐ろしい光景が頭に思い浮かんで、身体が震えた。


 ソファーの上で身を固くして、どれくらい時間が経ったのかわからない。

 厚いカーテンの端がうっすらと明るくなっているようにも見えるが、そう思いたいだけかもしれない。

 解けることのない緊張に長時間苛まれ、意識がもうろうとしてきた。

 隣の部屋から物音が聞こえる気がしたが、もはや空耳としか思えなかったから、それを拒絶しようと固く膝を抱いた。


 すると、がちゃりと寝室の扉のノブが鳴った。


「フリッツ!」


 反射的に身体が動く。

 頭から慌てて毛布を剥ぎ取ると、ソファーの背もたれの後ろに目を向けた。

 開いた扉の向こうから、姿を現したのは——。


「フリッツ! 良かった、無事だったのね!」


 一気に視界が水没し、彼の姿も周囲の景色も大きく歪んで見えた。

 腰回りに絡みつく毛布をもどかしく脱ぎ捨て、転びそうになりながらソファーを回り込み、彼に駆け寄る。


 帰ってこなかったらどうしようと、一晩中不安だった。

 普通に歩いて部屋から出て来たのだから、きっと、怪我もしていない。

 無事でよかった。

 本当に……。


 エルナの必死な様子に相手は驚いた顔を見せたが、すぐさまにやりと笑って両腕を大きく開いた。

 その瞬間、直感した。


 違う!


 しかし、勢いのついた身体は止まらなかった。


「きゃあ! 違うのっ!」


 じたばたしてもどうにもならず、彼の腕の中にぽすりと納まってしまった。

 すかさず、彼が腕をぎゅうと締めつけてくる。


「おはよう、子猫ちゃん。朝からずいぶんと情熱的だね?」


 耳もとで囁くからかい半分の甘い声に、ぞわりと鳥肌がたった。

 フリッツと全く同じ声なのに、全く違って聞こえる。

 抱きしめる力強い腕も、頬が押し付けられた厚い胸板も、ふと香る香水も全て同じはずなのに、全然違うのだ。


「フレデリクさん! は、放してください」

「どうして? 君の方から俺の胸に飛び込んできたというのに」

「違うんですっ。フリッツと間違えたんです。途中で気づいたけど止まらなくて……くっ」

「何も違わないさ。この身体はフリードリヒなんだし、いいじゃないか」


 エルナがもがけばもがくほど、フレデリクは面白がって腕を締め付ける。

 愛おしげに、頭に頬ずりまでする始末だ。


 こんなの全然、嬉しくない。


 フリッツに対する妙な罪悪感まで感じ始めて、なんとか彼の腕から脱出しようと試みるが、もう身動きする隙間さえなかった。

 フォルカーの鍛え上げた身体は、女の子一人の自由を奪うことなど、造作もないことなのだ。


「よくありません! 放してください」

「そんなに、照れなくてもいいよ」

「だから、違うって……」


 しばらくそんな攻防を続けていると、突然、彼の胸とエルナの頬の間にふっと隙間ができた。


「そこまでだ。エルナを放しな」

「う……くっ」


 エルナが顔を上げると、フレデリクが苦しげに仰け反っていた。

 その首には、金色の燭台の足が横にあてがわれている。


「マヌエラ!」


 彼の背後に立っているから顔は見えなかったが、彼女に違いなかった。


「フォルカーが戻っているかと思って来てみれば、なんだよ、こいつかよ。無事に戻って来たんなら誰でもいいけどさ。ほら、早く手を放すんだよ」

「ん、う……ぐぐっ……」


 さらに仰け反ったフレデリクは、ようやくエルナを解放した。

 彼は赤くなった首をさすりながら、不満そうに言う。


「全く、ひどい扱いだな。俺はフリードリヒの代理なんだから、構わないだろう? なぁ、エルナ」

「構いますっ!」


 エルナはぷいと横を向いたが、気にかかることがあってすぐに視線を戻した。


「そうだ。あの……」

「なんだ」

「大丈夫ですか。怪我などしていませんか? 痛いところはありませんか?」

「怪我?」

「そうです。夜中にフォルカーが窓から抜け出したんです。また、無茶をしたんじゃないかと……」


 フレデリクはその言葉で、エルナがなぜあんな行動をとったのかを理解する。


「ははぁ、この身体がフリードリヒのものだから、気になるんだろう?」

「違います! もちろん、全く気にならないわけじゃないですけど、今は、フレデリクさんだから、フレデリクさんが痛い思いをしていないか気がかりなんですっ!」


 目の前の人物はフレデリクであり、フリッツではない。

 彼らが同じ肉体を共有していることは頭では理解しているが、感覚的には別人だ。

 だから今、心配なのは目の前のその人なのだ。

 ここにいるのがフォルカーであっても、きっと同じ心配をするのだ。


「……へぇ」


 彼は両腕を組み、意外そうな顔をする。

 ゆっくりと一歩踏み出して来た彼にエルナは怯え、マヌエラは燭台を手に身構える。


「な、なんですか?」

「ちょっと、フレデリク!」


 彼は子供を見るような柔らかな笑みを浮かべると、エルナの頭の上に手を置いた。


「いい子だ」

「え? えっ?」


 くしゃくしゃと髪をかき混ぜる手が、今はどういう訳か嫌ではなかった。

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