(9)
深夜ということもあり、厚いカーテンが引かれた室内は真っ暗だ。
テーブルの上に置かれた一本の蝋燭の炎が、部屋の中央だけを頼りなく照らしていた。
エルナは、ふわふわのソファーの上で毛布にくるまり、寝返りを打った。
リビングのソファーは大きく、エルナが寝るには充分広かった。
ただ、これまでずっと、固くて狭いベッドで寝ていたから、この柔らかさには今だに慣れない。
一日中、体を動かすこともなく部屋の中でじっとしているから、余計に眠れない。
「女の子をソファーで寝かせる訳にはいかないよ。僕がソファーで眠るから、君は僕のベッドを使って」
フリッツからはそう言われたが「怪我をしてるんだから、ベッドでゆっくり休んで」と断った。
「皇帝のベッドは、君みたいな女の子が二、三人一緒でも大丈夫なように作ってあるから、一緒に寝よう」
そんな、とんでもないフレデリクの提案はきっぱり拒絶した。
深夜に別の人格に入れ替わってしまっては危険だと、毎晩、ゲラルトが寝室に泊まり込んでいる。
今も寝室から、微かに話し声が聞こえてくる。
ゲラルトと話しているのはフリッツだろうか、フレデリクだろうか。
「おやすみ」を言って別れた相手はフリッツだった。
眠りが浅いときに人格が入れ替わることが多いという話だったから、今はフレデリクになっているのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
「おい、エルナ。起きろ」
誰かに肩を揺すられ、はっと目を覚ました。
テーブルの上の蝋燭の灯りを背にし、逆光になった黒い人影が目の前にあった。
怖くはない。
その影の輪郭は、よく知った人物のものだったから。
「フリ…………」
名前を呼ぼうとして、すぐに彼が別の人物であることに気づく。
どこかひやりとした気配。
影にしか見えない黒い姿がしっくりくる、奇妙な存在感。
きっと彼は、その気になれば、瞬きの間に完全に闇と同化して姿を消すことができるだろう。
「もしかして、フォルカー……なの?」
「あれから、何日経った?」
エルナの問いかけには答えなかったが、フォルカーに違いない。
彼の人格が出現したのは、大怪我を負った夜以来、初めてだった。
「七……ううん、八日かな」
「そうか。まぁ、この感じじゃ、そんなところだな」
彼の影が、自分の脇腹をさすった。
怪我の治り具合を確認しているのだろう。
「どう? 痛む?」
聞いてみたが、彼はその質問には答えない。
「悪かったな。俺がヘマしたせいで、こんな場所に閉じ込められて」
「えっ? あ……うん」
彼が謝るなんて思わなかったから、エルナは黒い人影に向かって目を瞬かせる。
「待ってろ。なるべく早く、あんたをここから出してやる」
「どうやって?」
やはり彼は、質問には答えてくれない。
彼の影から不穏な気配が立ち上り、まとわりつく。
「お願い。危ないことはしないで。また、怪我をしたらどうするの!」
彼がこのままおとなしくしているはずがない。
フレデリクが「怪我が治って動けるようになるまでは、フォルカーは現れないだろう」と言っていた。
だから、きっと彼は、今晩動く。
そのつもりで、目覚めたはずなのだ。
「しねぇよ。今はな」
ようやくそれだけ答えると、彼は寝室の扉でも、廊下に出る扉でもなく、カーテンの引かれた窓に向かって歩いていく。
「待って! どこ行くの」
黒い影は無言で窓の前に立ち、カーテンの端に手をかけると、大きく翻した。
ざっという音とともに、四角に切り取られた濃紺の色が見えた。
同時に、黒い人影がわずかに青く色づく。
薄闇の中に鈍く光るダークブロンド。
くっきりと浮かんだ整った横顔。
カーテンの端が元の場所にふわりと戻り、人影を覆い尽くす。
その瞬間、彼はその場から消え失せていた。
「フォルカー!」
きんと冷えた冬の外気が、カーテンの裾をはためかせている。
エルナは窓に駆け寄ると、カーテンを開け、窓から身を乗り出した。
そして、そこから見えた景色に絶句した。
空に斜めに上がった細い月が、外の景色を黒い輪郭だけにして浮かび上がらせている。
窓の外にはバルコニーなどはなく、窓が並んだ石造りの壁があるだけだ。
眼下には黒々とした闇が落ち、どこからが地面なのか分からなかった。
この部屋は、エルナが想像していたより、ずっと高い場所にあった。
「う……そ、でしょ……」
拒絶するような冬の冷たい風に押し戻され、エルナはよろよろと後ずさりした。
そして、大理石の床の上にぺたりと座り込む。
カールハインツを手伝っているときに見た彼の傷は、素人目にもかなり良くなっていたが、完治していなかった。
フリッツも「まだ、動くと痛い」と、言っていたのだ。
そんな身体で、こんな高い場所からどうやって?
さすがに、飛び降りたのでは無事ですまないだろう。
壁を伝って?
それとも、近くの木の枝に飛び移って?
ずば抜けて身体能力の高いフォルカーだから、心配する必要はないのかもしれない。
けれど彼が、どれだけ自分に自信があったとしても、それを上回る事態が起きることはある。
実際、大怪我を負ったばかりなのだ。
そして、そんな彼を最初に見つけたのがエルナだったから、余計に不安が募る。
「どうしよう……。どうしよう」
彼は無事なのだろうか。
あの高さから落下して、真っ暗な冷たい土の上に倒れていたらどうしよう。
もし……。
最悪の事態を思い浮かべそうになって、エルナは強く頭を振った。
「そうだ」
寝室には、ゲラルトが一緒にいたはずだ。
とにかく彼に知らせないとと思い、慌てて寝室に向かった。
「ゲラルトさん!」
寝室のベッド脇にある豪華な燭台には、全ての蝋燭に炎が灯されており、ベッド周りは充分に明るかった。
カーテンが半分引かれた乱れたベッドの前に椅子が一つあり、その背もたれの上に頭が見えた。
「ゲラルトさん! フォルカーが!」
慌てて駆け寄り椅子を回り込むと、ゲラルトは腹の上で手を組んだ姿勢で、ぐっすりと眠り込んでいた。
「ゲラルトさん、起きてください。フォルカーが、さっき、窓から……」
彼を起こそうと、両肩に手をかけて揺さぶる。
彼の首がぐらぐらと揺れたが、起きる気配がない。
「ゲラルトさんってば! 起き……」
手に力を込めると、彼の身体は大きく傾いた。
「危ないっ!」
エルナは慌てて手を伸ばしたが、落ちてくる大人の男性の体を支えきれなかった。
彼は足元でどさりと音を立て、身体を折り曲げうめき声をあげる。
「きゃーっ、ごめんなさい。ゲラルトさん、大丈夫ですか! ゲラルトさんっ」
下はふかふかの絨毯だ。
怪我はないと思いたい。
急いでかがみこみ、助け起こそうとすると、彼はさらに辛そうに身体を曲げた。
そして、両手で腹を抱え込み、急に激しく咳き込み始めた。
「ぐ……ごほっ! げほっ! くそっ、あいつめ……」
「えっ? まさか」
熟睡していたゲラルトを椅子から落としてしまったと思ったが、眠っていた訳ではなさそうだ。
彼がこんな風に腹を押さえて苦しむ様子を、以前にも見たことがある。
これはおそらく、フォルカーの仕業。
「くっ……。まだ……しばらく、出てこない……と、思ったのに。油断し……た」
ゲラルトはひとしきり咳き込んだ後、歯を食いしばりながら身体を起こした。
「大丈夫……ですか?」
「まぁ……なんとか、生きてます」
彼は両手で腹を押さえたまま、肩で大きく息をついた。
エルナはベッドの傍の水差しからグラスに水を注ぎ、ゲラルトに手渡した。
「水、飲めますか?」
「ありがとうございます」
彼は弱々しい手でそれを受け取ると、一口飲んで、また息をつく。
かなり辛そうだ。
「ごめんなさい。わたし、ゲラルトさんを椅子から落として……」
「椅子? ……あぁ、そんな些細なこと、気にしないでください。それより、フォルカーに会いませんでしたか?」
その質問にはっとなる。
「そう! ゲラルトさんっ。フォルカーが、窓から出て行ってしまったんです。一瞬のことだったから、止めることもできなくて」
エルナの言葉に、ゲラルトは特に驚くでもなく「そうですか」とため息交じりに言う。
「どうしよう。彼にもしものことがあったら……。まだ、怪我もちゃんと治っていないのに、あんな高い場所から……」
「それは、心配ありませんよ。完全ではないにしろ、フォルカーが動けると判断したんでしょうから。あの窓は、彼のいつもの玄関なのです。それよりも彼、何か言っていましたか?」
エルナは少し考えて、いちばん印象的だった言葉をまず口にする。
「悪かったって」
「まさか! 謝ったんですか? 彼が? 本当に?」
フォルカーがその言葉を発した時、エルナも意外な気がしたのだが、ゲラルトにとっても驚きだったようだ。
「自分が失敗したせいで、わたしがここに閉じ込められたからって。それで、なるべく早くここから出してやるって言っていました」
「そんな正義の味方的な発想をする男ですか、あれが? 迷惑をかけっぱなしの私のことは当然のように倒して、悪びれる様子もないのに」
そこまで一気に言うと、グラスに残っていた水を、やけ酒でもあおるように飲み干す。
「でも、まぁ、分かりました。フォルカーはあれだけの怪我を負っても、諦めてはいない。むしろ、あなたが絡んだことで、より火がついた状態なのですね」
ゲラルトは空のグラスをエルナに手渡すと、よろよろと立ち上がった。
「あの……どこへ?」
「フォルカーを探しに行ってきます。これまで、見つけられた試しはないんですけどね。万一、運悪く見つけてしまったら、二発目を食らうだけでしょうけど……ええ」
だったら、行かなくてもいいのに思うのだが、そうしないところが真面目な彼らしい。
悲壮とも言える決意で寝室を後にする彼を、エルナは気の毒な思いで見送った。




