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(8)

 逃げるように寝室を後にしたエルナは、もはや定位置となったソファーの端に腰掛けると、ほっと息をついた。

 頬を両手でぎゅっと押さえると、まだ、かなり熱を持っている。

 気を抜くとまた妙なことを思い出しそうで、ふるふると頭を振った。


「あ、そうだ」


 気分を変えたくて、マヌエラから受け取った鞄を開けた。

 ふわりと漂うパンの香りに、つい笑顔になる。

 布の包みを取り出して開くと、中からケシの実が乗ったカイザーゼンメル三個と、小さな丸パンが四個出てきた。


 まだほんのりと温かいカイザーゼンメルは、綺麗に形が整っているから、工房のちゃんとした職人の手によるものだろう。

 一方、大きさがバラバラで形も不恰好な丸パンは、きっとマヌエラ作だ。


 どれも、テーブルの上の籠に盛られている白いパンと違って色が悪く、ずっしりと重くて固い。

 それらのパンを、うきうきしながら空いた皿に盛り付けると、隣の小麦だけで焼かれた上品なパンよりも、ずっと美味しそうに見えた。




 しばらくして、寝室の扉が開いた。

 そこから出て来た三人の男たちは、そのまま廊下に続く扉に向かう。


「どうぞお大事に。また明日、参ります」

「ああ」


 フリッツは扉の少し前で立ち止まり老医師を見送る。

 医師の鞄を持ったゲラルトが、もう一方の手を扉の取っ手にかけた。


「では、私はカールハインツ翁を馬車までお送りしてきます」

「えっ?」

「今日はいつもより鞄が重いようですので」

「あ、ああ。分かった」


 突然鞄が重くなったかのように顔をしかめたゲラルトの言葉を、フリッツは苦々しい顔で了承した。

 カールハインツも急に十歳ほど歳を取ったらしく、腰をさすりながら「すまないね」などと言っている。


 二人の思惑は見え見えだ。

 しかし、かくしゃくとしていても老人には違いないカールハインツをだしに使われては、フリッツにもどうしようもなかった。


「では、エルナ様、陛下を頼みましたぞ」


 振り返ったカールハインツが意味ありげに目配せした。

 エルナは慌ててソファーから立ち上がると、「はい」と答えるしかなかった。


 ぱたりと扉が閉まり、二人っきり。


 フリッツは扉を見つめたまま「あいつめ……」と罵った。

 そのあと、少し顔を赤らめ、様子を伺うようにエルナをちらりと見る。


 そんな顔をされてしまったら、エルナだって平常心ではいられない。

 自分の頬の温度を自覚しつつも、黙っていることに耐えられなくなって口を開いた。


「あの……」


 言いかけたものの、何を言っていいか分からなくて、ずいぶんたってから言葉を続ける。


「えっと……、ソファーに座ったら? 傷にさわるから」

「あ、あぁ……そうだね」


 二人はどことなくぎくしゃくしながら、同じソファーに少し間を開けて座った。

 妙な緊張感のせいでどちらも何も話せない。

 もじもじしながら無言の時間を持て余していると、フリッツがテーブルの上に置かれていた見慣れないパンに気づいた。


「あ、あのパン、いつものパンと違うね」


 彼は立ち上がると、皿の上からこんがり焼けたカイザーゼンメルを一つ手に取った。

 エルナと彼を結びつけたパンは、身構えなくても話せる唯一の共通の話題だった。

 二人はさっきまでの緊張を忘れ、すんなりと話に入っていく。


「それ、さっき、マヌエラが持ってきてくれたパンなの。わたしも働いていた使用人用のパンを焼く工房で焼いたものだから、フリッツが普段食べているパンとは材料も作り方も違うのよ。もちろん、味もね」

「へぇ。エルナのお店のパンにちょっと似てる」

「そうね。ライ麦が入ってるから」

「そうか」


 フリッツは手にしたパンを、折り込まれたひだを外すように小さくちぎった。

 そして、少し灰色がかった断面をじっくりと確認してから、小さなかけらを口に入れた。

 味を吟味するように、ゆっくり噛みしめる。


「うん。味もちょっと似てるけど……中途半端というか、何か物足りない気がする」

「でも、うちのお店よりいい材料を使ってるのよ。小麦もたくさん混ぜているし」

「やっぱり、エルナのパンの方がずっと美味しいよ。君のパンは、ライ麦の風味と表面の香ばしさが絶妙なんだ。噛み締めたら幸せだって思えるくらいに」

「やだ。褒めすぎよ」


 照れながらも、彼が自分のパンを認めてくれていることが嬉しい。


 エルナの店のパンは、庶民向けの安価なパンだから、ライ麦を混ぜる比率が高い。

 材料そのものの品質も劣る。

 しかし、そんな素材の特徴を最大限に活かしたパンを焼いていた自負はある。


 そんなエルナのパンを食べ慣れている彼にとっては、城の工房で焼かれたパンが物足りなく感じるのは当然のことだ。

 彼と同じ思いは、エルナ自身も抱いていたのだ。


 フリッツはパンを食べ終わると、小さくため息を漏らした。


「あぁ、エルナの焼いた林檎のパンが食べたいな。もう随分長い間、食べていないから」

「そうね。わたしも久しぶりに焼きたい。フリッツに食べてもらいたい」

「どうせなら焼きたてがいいな。まだパリパリいってるようなやつ」

「フォークを突き刺して?」

「そう! フォークを突き刺して。はふはふ言いながら、お行儀悪く食べたいよ」


 パン工房の片隅で、古いテーブルを挟んで向かい合い、焼きたてのパンを頬張った。

 パンとチーズと、野菜だけの薄いスープ。

 林檎の皮で風味をつけた野草のハーブティ。

 粗末な食卓なのに最高に贅沢で、幸せな時間だった。


 あの彼が、今は隣で笑っている。


 少し隙間を開けて座ったはずなのに、いつの間にか、肩や腕が触れる距離になっていた。


「そうだ。いつか、この部屋の隅にパン窯を作ろう。そうしたら、エルナは好きな時にパンを焼けるし、僕は君がパンを焼いている姿を見られるし、いつでも焼きたてのパンが食べられる」

「それって、わたしがフリッツ専属のパン職人になるっていうこと?」


 それは、なんて素敵なんだろう。

 彼のためだけに、彼の好きな林檎のパンを焼く——。


 彼の言葉を深く考えることなく、単純でささやかな夢を思い描いていると、なぜか、隣で深いため息が聞こえた。

 驚いて視線を向けると、彼は片手で顔を覆い、ひどく落胆しているように見える。


「え? どうしたの? わたし、変なこと言った?」


 急に不安になって尋ねると、彼はくすくすと笑いだした。


「いや、そんなことないよ。でも、覚えておいて。僕が君に望むのは、それだけじゃないってこと」

「他に、何が?」


 その疑問を遮るように、フリッツがエルナの背中に腕を回し抱き寄せた。


「今は内緒」


 他には誰もいないのに、耳元でそっと囁くものだから、エルナの心臓は跳ね上がる。

 おかげで、その話はうやむやになってしまった。

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