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 彼に顔を見られないように背を向けて、お茶の準備を始める。

 上流階級の人たちが飲むような紅茶は持っていないから、ポットの中に数種類のハーブと林檎の皮を入れた。

 ゆっくりと熱湯を注ぐと、清涼感と甘さが混ざり合った爽やかな香りが立ちのぼる。

 その頃になって、ようやく少し落ちついてきた。

 頬の赤みも消えただろう。


「よし。もう大丈夫」


 エルナは小声で気合いを入れて、二つのカップを手にテーブルに戻った。


 彼は二つ目のパンを、少しずつちぎりながら上品に口に運んでいるところだった。

 皇帝の名を持つ丸いパン。

 彼の選んだものには、かぼちゃの種が乗せられている。


「君って、本当に腕のいい職人なんだね。これ、とっても美味しいよ。あまり食べたことのない味と食感だけど」


 気配を感じて振り返ったフリッツが、食べかけのパンを軽く持ち上げ、くったくのない笑顔を見せた。

 彼のような人なら、普段はもっと上質な材料を使って焼いたパンを食べているだろう。

 エルナの焼いたパンを「あまり食べたことのない味と食感」と評するのは、ライ麦を多く使ったパンを食べ慣れていない証拠だ。

 けれども、おいしそうにパンを頬張る彼の様子を見ると、お世辞で言っているのではなさそうだ。


「あ、ありがとう。気に入ってもらえてよかった」


 彼の言葉と表情にドギマギしながらも、平常心を装いながら彼の前にカップを一つ置き、向かいの席に座った。

 案の定、彼はカップの中身を覗き込むと、不思議そうな顔をした。


「これは?」

「ハーブティーよ」

「へぇ……。いい香りだね。こんなお茶は初めて飲むよ」


 粗末な木製のカップに、野で摘んだハーブで作ったお茶。

 香り付けには林檎の皮。

 あまりにも彼に似合わない、お茶とも言えないような飲み物だったが、彼は嬉しそうに口を付けた。

 エルナはほっとしながら、食べかけのパンを口に運んだ。


「このお店は、君が一人でやってるの?」

「ええ」

「あのたくさんのパンも、全部、君が焼いたの?」

「そうよ。朝早くからね」

「すごいな。どこかで修行したのかい?」


 エルナは問われるままに、自分のことを話していった。

 幼い頃から、パン職人だった父親の手伝いをしていたこと。

 二年前に亡くなった父の跡を継いだこと。

 もっと、おいしいパンが作りたくて、試作を重ねていること。


「でも、なかなかお父さんのようには焼けないの」

「エルナのお父さんは何歳だったの?」

「亡くなった時は四十一歳だったわ」

「君は?」

「十六」

「だったら、焦らなくていいよ。お父さんがどれほど素晴らしい職人だったか知らないけど、きっと彼が十六歳のときは、エルナほど上手にパンは焼けなかったと思うよ。だって、君のパンはもう、こんなにおいしいんだから」


 そう言って、フリッツは最後のパンの最後のひとかけらを満足そうに頬張った。

 それをじっくりと味わいながら咀嚼して飲み込むと、「ね?」と笑った。


 この二年間、誰も座ることのなかった椅子に人が座り、にこにこと話を聞いてくれることが嬉しい。

 あまりに楽しくて、ついつい時間が経つのも忘れていたが、工房の空気が変わったことを職人の勘が敏感に感じ取った。

 息を大きく吸って、その勘が正しいことを確認する。


「そろそろ林檎のパンが焼けるわ」

「僕もついていっていい?」


 エルナが席を立つと、フリッツも興味津々の顔で立ち上がった。

 石窯の扉を開けると、炎の熱気と共に、小麦の香ばしさと林檎の甘い香りが一気に押し寄せる。


「危ないから、少し離れていてね」


 エルナが慣れた様子で、石窯から天板を取り出していく。

 その上には、黄金色に輝く林檎の欠片がたっぷり乗った小振りのパンがずらりと並んでいた。

 きつね色の焼き色と、香ばしさと甘さが溶け合った香り、焼きたてのパンたちが奏でる軽やかな音を確認して、エルナは満足そうに目を細めた。


「うん。今回も綺麗に焼けたわ」

「すごい。壮観……だね。こんなの初めて見た」


 いつの間にかすぐ隣に立っていたフリッツが、感嘆の声を上げた。

 けれどエルナは、さっき父親の話をしていたせいか、少し感傷的な気分になる。


「この林檎のパン、お父さんにも食べてもらいたかった」


 ぽつりと呟いた言葉に、フリッツが不思議そうな顔を向けた。


「どういうこと?」

「このパンはお父さんが亡くなった後に、わたしが自分で考えたの。だから、お父さんはこのパンを知らない」

「そうか……。それは残念だね」

「麦の粉と塩と酵母だけで焼き上げるパンは、人間が作り出した最も偉大な食べ物だ——っていうのが、お父さんの口癖だったの。それ以外の材料はほどんど入れない、昔ながらのパンづくりにこだわっていた頑固な職人で……。だから、わたしが林檎のパンを焼いていることを知ったら、叱られちゃうかも」


 自分が林檎のパンにたどり着いたことは、パン職人として間違っているとは思わない。

 味にも見た目にも自信がある。

 だから、このパンを、そして今の自分を、尊敬する父親に認めてもらいたかった。


 けれど、その人はもういない。


 ぽんぽんと背中を軽く叩かれて、エルナは隣を見た。

 隣にいるのは父親ではなく、今日会ったばかりの青年だ。

 その彼がにっこりと笑う。


「叱るはずないさ。きっと、よく頑張ったと褒めてくれるよ」

「そうかな?」

「絶対、そうだよ。だって、目の前のこのパン、とっても綺麗で美味しそうじゃないか。 君の焼くパンは素晴らしいよ。もっと自信を持っていいと思うな」

「……ありがとう」


 彼の力強い言葉に胸が熱くなる。


 間近から見つめてくるエメラルドグリーンの瞳は真っ直ぐで、お世辞も誇張もないことが伝わってくる。

 父親に認めてもらうことは永遠にできないが、彼のような人に認められたのなら、これ以上のことはないと思える。


 天板にずらりと並んだ林檎のパン。

 楕円の中央に飴色の林檎の果実が散らばり、その周囲を見事に膨らんだキツネ色の生地がぐるり取り囲む。

 林檎と蜂蜜の甘さと、焼きたてのパンの香ばしい香りが絡みあって広がる。


 これが、わたしのパン。


 目の縁をさりげなく拭い、エルナはフリッツに笑い返した。


「お待たせしちゃってごめんなさい。これ以上にない焼きたてよ。どうぞ、召し上がって!」

「じゃあ、せっかくだから二つ頂くよ。いちばん美味しそうなやつを選んでくれるかい?」

「もちろん!」


 焼き色と形の良いパンを二つ厳選して皿に取る。

 そして、いちばん形の悪いものを一つ、自分用にと別の皿に取った。

 普段は、自分で林檎のパンを食べることはないが、今日は特別だ。

 彼と同じものを一緒に食べたかった。

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