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「なに? 夫婦喧嘩?」

「うわあっ!」


 いきなり声をかけられ、ゲラルトは大げさな声をあげた。

 彼の隣にはいつの間にか、パン工房のお仕着せ姿の女が立っていた。


「な、なんだ。マヌエラか。気配を消して近づくのはやめてくれませんか」

「カール爺さんは平然としてるじゃないか。あんたが小心者なんだよ」


 自分以外には男の声しかなかった部屋に聞こえてきた女性の声に、エルナはほっとした顔を上げた。


「マヌエラ!」


 彼の脇をすりぬけて、マヌエラに駆け寄り抱きついた。

 フリッツに対して意地をはっているうちに引っ込みがつかなくなっていたから、彼女の来訪はありがたかった。


 女の子二人が抱き合う様子を、両腕を組んだフリッツが面白くなさそうに見ている。

 そんな主の様子に、側近と侍医が笑いをこらえていた。


「ほら、差し入れ」

「いつもありがとう」


 マヌエラから渡された鞄には、洗濯済の着替えやちょっとした差し入れが入っている。

 エルナが使うものは、表立ってこの部屋に持ち込むことができないから、彼女が時々、例の抜け道を使って持ってきてくれるのだ。


「あんたに言われた通り、パンとチーズと果物も少し入れてきたよ。皇帝陛下が食べるものに困ってるなんて、一体、どういうことなんだろうねぇ」


 マヌエラがゲラルトに向かって皮肉を言う。


「仕方ないじゃないですか。この部屋には、我が君一人分の食事しか運び込めないんですから。お茶ぐらいなら、私の分として余分に持って来れますが」

「なんとも不自由なことだね。じゃあ、あたしは戻るよ」

「えっ? もう行っちゃうの?」

「あんたも知ってるだろ? パン工房の仕事は忙しいんだよ」

「あ、そっか……」


 お昼前のこの時間帯は、夕食用のパンを仕込み始める頃だと気づく。

 ここに来るまでは、自分の店にいた時も、城の工房に勤めていた時も、パンの焼き上げ時間や発酵具合に合わせて、一日の予定が縛られる生活を送っていた。

 そんな日々からほんの数日離れただけなのに、随分昔のことのような気がした。


「いいなぁ……。わたしもパンを焼きたい」

「あたしも、ぜひ替わってあげたいところだけどね。もうしばらく、いい子にしてなね」


 しゅんとなったエルナの肩を、マヌエラが慰めるように叩いてくれた。


 マヌエラの姿が隣の衣装部屋に消えると、侍医が主に声をかけた。


「さて、治療に戻りますかな。陛下、椅子にお戻りください」


 肩の傷は薬を塗っただけで、まだ包帯を巻き直していなかった。脇腹と頭部の怪我はまだ治療できていない。


「あ、ああ。でも……」


 フリッツは戸惑った様子で、スツールに腰を下ろした。


「どうかなさいましたか」


 シャツのボタンを外すのを手伝おうと手を伸ばしたゲラルトが、怪訝な顔をする。


「いや、あの……ほら、この腹の傷はかなり重傷のはずだ。エルナには……女性が見るには酷だろう? だから……」


 彼はエルナをちらりと見た。


 彼は気を使ってくれているのだろう。

 けれど、彼の手当は自分の手でしたいと思う。

 怪我を負ったばかりの血塗れの姿を見たこともあるのだから、治りかけの傷など何の問題もないはず。


「大丈夫よ。わたしも手当てを手伝いたい」


 きっぱりと答えると、彼は妙に狼狽した様子を見せた。


「いや……僕が、無理。君に裸を見られたり肌に触れられたりするのは、僕の方がもう耐えられないんだ」

「え……?」


 彼に拒絶されたのだと、エルナは一瞬だけショックを受けた。

 しかし、彼の顔がみるみる赤くなり、ついにはこらえきれなくなり視線を逸らしたところを見ると違うようだ。

 エルナも「裸」という言葉に触発され、さっき、彼に抱きしめられたことを思い出す。

 傷のない彼の胸部は美しく滑らかで、硬いながら弾力もあって、熱かった。


 ああ、わたしったら何を思い出してるのっ!


 頭の中を必死で空っぽにしようとしても無駄だった。

 かあっと顔が熱くなっていく。


「ご、ごめんなさい。わたしも……やっぱり、無理……です」


 エルナも両手で顔を覆って俯いた。


 ゲラルトは吹き出しそうになるのを堪え、大真面目な口調で侍医に言う。


「お二方とも無理かと思われます」

「うむ。致し方ありませんね。では、エルナ様は治療が終わるまで隣でお待ちください」


 侍医もまた、至極真面目な口調で、エルナを解放してくれた。

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