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(6)

 さすがに気まずさと恥ずかしさで、彼の前に立って包帯をはずすことはできなかったから、背後に回って肩の上部にある包帯の結び目を解く。

 ゆっくりと包帯を外すと、そこから現れたのは、鋭利な刃物で切りつけられたと一目で分かる、赤く長いまっすぐな傷が二本。

 その周囲には黒っぽく固まった血がこびりついていた。

 真新しい傷の下には、右肩から背中を斜めに横断する大きなぎざぎざの引き攣れた古傷が、腹部に巻かれた包帯の内側まで走っていた。

 他にも大小のいくつかの傷跡。

 左の肩甲骨のあたりには紫色の大きな痣があった。

 腹部の包帯を外せば、さらに別の傷が出てくるだろう。


 彼の身体が傷だらけだということは話には聞いていたし、予想もしていた。

 しかし、真新しい傷以上に壮絶な過去の爪痕に息を飲む。

 手にしていた包帯の端がすべり、豪華な絨毯の上に音もなく落ちた。


「酷い身体だろう? エルナ、無理をしなくてもいい」


 背中を向けたままの彼の声が自嘲めいている。

 きっと、この醜い古傷を見せたくなかっただろう。

 自分が皇帝であることも、自分以外の別の人格が複数存在することも、知られたくなかっただろう。

 けれども、彼の負い目を知ってしまった今、それら全てを受け止めたいと思う。


「ううん。平気」


 表情が変わったエルナに、老医師が満足そうに目を細めた。


「では、薬を塗ってもらえますかな?」

「はい」


 明らかに医師がするべき仕事を命じられても、もう動じなかった。

 塗り薬の入った小さな容器を受け取ると、改めてフリッツの背後に立った。

 新しい傷口はすっかりふさがっているように見えるが、下手に触ると痛そうだ。

 薬を乗せた指先でそっと赤い線をなぞると、彼の肩がピクリと震えた。


「あっ。ごめんなさい。痛かった?」

「……いや」


 フリッツは一言だけ答えると、両の掌で顔を覆ってうつむいてしまった。

 その様子が痛みをこらえているように見えたから、より慎重に薬を塗り込んでいく。


 彼と初めて会った日も、小さな擦り傷にこうやって薬を塗ってあげた。

 そのとき目にした、袖の内側に半分隠された痛々しい古傷を、指先でそっとなぞった。


 全部消えてしまえばいいのに——。


 その時と同じ思いを意識せぬまま、薬を塗り終わった指で、背中の大きな傷跡を労わるようにさする。

 陶器のようにつるりとした引き攣れと、その周囲のごつごつした硬い盛り上がり。

 見た目以上に酷い怪我の跡が、生々しい感触として指先に伝わってくる。

 肩にできた新しい傷より何倍も酷い怪我だ。

 この傷が幼い彼の身体と精神を蝕んだのだ。


 どれほど痛かったろうか。

 どれほど辛かったろうか。

 痛みも苦しみも傷跡も、全部消えてしまえばいいのに——。


 エルナの指が、何度か背中を往復したとき。


「君に初めて会った日も、怪我の手当をしてもらったね」


 うつむいたままのフリッツが、ぽつりと言葉を落とした。


「うん」

「その時も君は、そうやって僕の醜い傷を撫でてくれた。そんなことをしたって、僕の身体に刻まれた傷跡は決して治らないけど、それでも僕の心は癒されたんだ。その日から僕は……」


 想い出を愛おしむように、何かを確認するようにそこまで言うと、彼は顔を上げてゲラルトにちらりと視線を送った。


「なんでございましょうか。我が君」


 視線の意味を察した側近は、主の前に進み出ると、さっと絨毯に片膝をつく。


「やはり、お前たちが言う道を目指したい。あれだけ意地を張った直後で情けない話だが、あきらめることなど到底無理だと思い知らされた」


 主人の決意を秘めた表情と言葉に、ゲラルトが安堵した様子で胸に右手を置いた。


「そうですか。安心いたしました。我が君」


 肝心の部分をぼかしたやり取りだったから、二人が何について話しているのか、エルナには分からなかった。

 二人の口調は主と従者のそれで、深刻そうに聞こえた。

 エルナとカールハインツが入ってきたことで中断された、話の続きなのだろうか。


 話の邪魔にならないように、エルナが一歩下がろうとすると、フリッツがいきなり後ろを向いた。

 それまで前屈みだった姿勢をすっと正す。


 腹部には包帯が巻かれているが、胸には背中にあるような酷い傷はひとつもない。

 見事に鍛え上げられた、若くしなやかで美しい肉体が晒される。


「きゃ……」

「エルナ、すまない」


 目のやり場に困り逃げ腰のエルナを、彼は真剣な眼差しで見つめた。


「君にはさらに苦労をかけることになる。僕はこんな立場にあるし、今は深刻な問題が山積みだから詳しいことは明かせないが、僕を……」


 そこまで一気に言ってから言葉に詰まる。

「あぁ……なにか、違う」と額に手を当てて少し悩んでから、スツールから立ち上がった。


「あ……の、陛下……?」


 戸惑いにさらに一歩下がろうとしたエルナの両手を掴むと、ぐいと距離をつめる。


「ごめん、エルナ。いつか君にちゃんと話すから、今は僕を信じてほしい。きっと君を…………えぇと……うまく言えないけど、悪いようにはしないから」


 それまでつけていた不安定な皇帝の仮面を、彼自身が剥ぎ取った。

 表情も言葉遣いも、エルナがよく知っているフリッツになる。

 二人の間に引かれていた線を踏み越えて、彼の方から歩み寄ってきたのだ。


「それから、君に陛下だなんて呼ばれるのは耐えられないんだ。これまでのように、フリッツと呼んでほしい」

「フリッ……ツ?」

「うん」


 恐る恐る名を呼ぶと彼の顔が赤く染まり、何かを噛みしめるように口元が歪む。

 握り締められた両手首が痛い。


 彼は以前と同じように、フリッツとして接することに決めたようだ。

 目覚めたばかりの時は、皇帝としての立場を優先して、よそよそしかったのに。


 一体何が、彼を変えたのだろう。

 いくら呼び方や言葉遣いが変わっても、皇帝陛下とパン職人である事実は変わらない。

 この天と地ほどもある身分の差は、決して埋まらないのに——。


 間近から見つめてくるエメラルドグリーンの瞳が甘くて、優しくて……怖い。

 このままでは、身の程知らずの夢をみてしまいそうで、逃げるように視線をそらす。


「エルナ。不安そうな顔をしてるね。大丈夫だよ。僕がなんとかしてみせる」


 両手首を捕まえていた彼の手が離れ、その手が今度は両頬へ。

 温かなぬくもりが触れると同時に、頑なに背けていた顔をくいと上に向かされる。

 逃げたくても、もう、逃げられない。


「だって……フリッツ」


 彼の言葉はあまりにも抽象的で、断片的で。

「詳しいことは明かせない」と最初に釘を刺されたから、彼の本意を確認することもできない。

 不安になるなと言われても無理な話だ。

 もうどんな顔をしていいのかも分からなくなって、恨みがましい目を彼に向けた。


 すると彼は、大きく目を見開いた後、軽く眉間にしわを寄せる。


「あぁ。どうして、あんな小さな石一つで、あきらめられると思ったのだろう」


 苦しげな声と同時に、彼の両手が頬から離れていく。

 ほっとした次の瞬間、エルナは彼の腕の中に閉じ込められていた。

 気づけば自分の頬が、彼の裸の胸にぴったりと押しつけられている。


「かわいい……」

「えっ、待って、待って! フリッツ。放し……て」


 あまりの出来事に混乱し、彼の言葉が理解できない。

 とにかく彼から離れようともがきかけたが、彼が重傷を負っていることを思い出して、身動きが取れなくなってしまう。

 彼の腕はますますきつく締められ、頭のてっぺんには甘いため息が落ちた。


「エルナ……」

「ね、ねぇ、お願い。フリッツ。放して」

「エルナ、僕はね……君を」


 彼の肌が熱いのか、自分の体が熱を持ってしまったのか、とにかく暑くてたまらない。

 足元がふらつき、頭もくらくらしてくる。


「フリッツ……ったら、ねぇ」


「失礼ながら、我が君」


 割り込んできたゲラルトの真面目な声で、ようやく拘束していた腕が緩む。

 支えをなくしたエルナは、へなへなとフリッツの足元に崩れ落ちた。


 顔からは湯気が上がっているのではないだろうか。

 あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆い隠し、身体を小さく丸めた。


「も……う……、やだぁ……」

「え? エルナ? どうしたの?」


 そんなエルナを見下ろしながら、おろおろするフリッツの肩に、背後からシャツがふわりとかけられた。


「そういうことは、何か服をお召しになってからの方が、良かったのではないでしょうか。特に最初のうちは」


 側近の言葉で、フリッツはようやく、自分が上半身裸だったことに気づく。


「う……わっ!」


 傷の治療はまだ途中だったが、あたふたとシャツに腕を通した。

 普段は側近が留めることが多いボタンを、もどかしい手つきで自分で留める。

 そして、エルナの前にかがみこんだ。


「ご、ごめん。エルナ。つい……」

「……や!」


 謝られたって、そんなすぐには彼の顔を見られない。

 エルナは顔を隠したまま、拗ねたようにくるりと彼に背を向けた。


「もしかして、怒ったの? ごめん。でも、悪気はなかったんだ。君があんまりかわいかったから……」

「もう、フリッツなんて知らない!」

「ごめんって、エルナ。機嫌を直してよ」


 そんな二人の様子を、側近と侍医が「微笑ましいですなぁ」などと言いながら眺めていると、その隣に人影がすっと入ってきた。

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