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(5)

「おや、どうされましたか?」


 いつの間にか戻ってきていたゲラルトが、テーブルに皿を並べながら顔を上げた。


「あ、あの……」


 まさか隣の部屋に人がいるなんて思わなかったから、その場で固まってしまう。


「我が君は、ご一緒ではないのですか?」


 それまでにこにこしていたゲラルトが、怪訝そうな顔になる。

 彼は、さっきベルを鳴らしたのがフリッツであることに気づいて、あえてエルナに一人で寝室に行かせたのだ。

 きっと、二人が感動の再会を果たしたと、勝手に思っていたのだろう。


「あの……えっと、後から来ると思います」


 一昨日の晩、ゲラルトの前で大泣きをしてしまい、苦労性の彼をおろおろさせてしまった。

 もう、これ以上心配をかけたくなかった。

 それにもしかすると、今すぐフリッツが隣の部屋から出てくるかもしれない。

 だから、胸にこみ上げて来るものを押さえ込んで笑顔を作ったが、普通を装った声は震え、口角は引きつって上がらなかった。


 そんなエルナの様子に何かを察したゲラルトが、手にしていた皿を乱暴にテーブルに置いた。

 食器がぶつかり合う派手な音が鳴る。


「ったく、何をやっているんでしょうか、我が君は!」


 いつもは温厚な彼が、なぜか怒っているようだ。

 ぶつぶつ言いながら荒々しい足取りで近づいて来るから、ぎょっとしたエルナは、彼を避けるように扉の前から少し横に移動した。


 彼は、エルナに用があったわけではなかった。

 扉の前に立つと鼻息も荒くノブに手をかける。


「あのっ、待って。ゲラルトさん」

「きっと長くなりますから、あのスープとお茶、全部飲んじゃってください。パンも果物も全部どうぞ。我が君の分なんて、これっぽっちも気にしなくて構いません。ええ!」


 ゲラルトは棘のある声でそれだけ言い捨てると、ノックもせずに隣の部屋へと消えていった。

 何よりも主を大事にしていると思っていた彼の態度に、エルナは唖然となる。


 どうしよう。

 何か誤解させてしまった?


 フリッツと二人きりでいた部屋から、泣きそうな顔で出てきてしまったから、喧嘩をしたのかと思われたのかもしれない。


 ——喧嘩できるなら、まだ良かったのに。


 彼とはもう、言いたいことを言い合えるような関係ではない。


 エルナはふらふらとソファーに向かうと、その隅っこに浅く腰掛けた。

 背中を丸め、両手で頭を抱える。

 気を抜くと溢れそうな涙を、深いため息に変えて逃す。

 ずいぶん長い間そうしていたが、隣の部屋からは誰も出てこなかった。


 テーブルの上の食事を全部平らげるように言われたが、食欲などあるはずがなかった。

 すっかり冷めたスープが、皿の内側に乾いた輪を描いていた。

 籠の中からパンを一つ取り出して二つに割ってみたものの、白いふわふわのパンを、どうしても口にすることができなかった。

 紅茶も飲みたくなかったから、水差しの水をグラスに注いだ。

 複雑なカッティングを施された高価そうなグラスの中身だけが、唯一、エルナがこれまで生きてきた世界と同じものだった。


 水だけを喉に流し込んだ後、また、元の体勢に戻る。

 しばらくして、廊下側の扉がこつこつと鳴った。


 エルナは扉を開けることも返答をすることも禁じられている。

 それに、誰が来たのかは想像がついたから、そのままで様子をうかがっていた。


 ゆっくりと扉を開けて入って来たのは、大きな鞄を下げた少し腰の曲がった老人。

 皇帝の侍医であるカールハインツだった。

 彼は一日に数回、往診に訪れていた。


「こんにちは」


 エルナは立ち上がって頭を下げた。


「少し遅くなってしまいました。エルナ様お一人ですかな? 何やらお顔の色がお悪いようにお見受けしますが、お疲れなのではないですか?」

「いえ、そんなことは」

「食事もされていないようですね」


 テーブルの上の食事がそのままであることに気づいた老医師は、エルナの前まで来ると、診察するように顔を覗き込んできた。


 彼は皇帝の血筋である公爵家の出だと、ゲラルトから聞かされていた。

 フリッツとは親戚にもあたる高貴な人物である。

 皇帝の身体を診るのだから、それ相応の立場の人間でなければ務まらないのだろう。

 そんな彼が、初めて会った時から、エルナに恭しい態度で接してくる。

 その居心地の悪さに、何度も「ただのエルナと呼んでください」とお願いしたのだが、やんわりと拒まれてしまった。

 今日もまた、彼は丁寧な言葉遣いと態度で接してくる。


「懸命に看病なさっておいででしたからね。こんな慣れない場所に連れてこられて、気疲れもおありでしょう。無理はなさらないでくださいね」


 老医師はいたわるようにエルナの肩を撫でてくれた。


「陛下は、もう目覚められましたかな?」

「はい、昨晩、カールハインツさんが帰られた後に。今はゲラルトさんと、寝室で話をされています」

「そうですか。で、彼は今……?」


 少し声をひそめた話しぶりから、医師が何を尋ねようとしているのかを読み取る。


「今はフ……いえ、皇帝陛下です。でも、最初に目覚めた時はフレデリクさんでした」

「ふむ。では、皆さんに大体の状況説明は終わっておりますね。ではエルナ様、またお手伝いいただけますでしょうか? 今日は包帯を替えねばなりませんから、大変なのですよ」

「えっ、でも……」


 彼が眠っている間は、カールハインツの仕事を手伝ったし、付きっ切りで看病もした。

 早く良くなってもらいたいと願い、自分が少しでも彼の役に立てることが嬉しかったから、彼の世話に一生懸命になっていた。

 しかし今、彼はフリッツとして目覚めている状態だ。

 しかもさっき、彼の前から逃げ出してきたところなのだ。

 のこのこと寝室に戻るのは、気まずすぎる。


「どうかされましたかな?」

「陛下はもう大分、良くなられたようですし、わたしがお手伝いしなくても……。それに、寝室にはゲラルトさんもいらっしゃいますし」


 これまでは手伝いといっても、彼の荷物を持ったり、フリッツの汗を拭いたりといった誰にでもできる簡単な仕事だけだった。

 本格的な治療の手伝いをするのなら、ゲラルトの方が適任だ。

 エルナの部屋でフリッツの応急処置をした彼の腕は、本職の医者かと思うほど手馴れていたのだから。

 ゲラルトの腕は、カールハインツも知っているはずだ。


 しかし、尻込みするエルナに、老医師は柔和な笑みを向けた。


「いえいえ、ぜひ、貴女様にお手伝いいただきたいのです。一緒に来てくださいますね?」


 丁寧な言葉の最後に置かれた念押しは、ほとんど強制のように聞こえた。

 皺に半分隠れたような藍色の眼力に、圧倒される。

 老医師が何にこだわっているのか分からないが、彼に従うしかなかった。


「……はい」

「では、参りましょうか」


 笑顔に戻ったカールハインツが寝室の扉を叩くと、しばらくしてゲラルトが顔をのぞかせた。


「陛下の包帯を替えさせていただきたいと思うのだが、今、いいかね?」

「はい。よろしくお願いします」


 すたすたと歩く老医師に続いてエルナも扉をくぐると、ゲラルトは少々驚いたように目を見開いた。

 事情を聞いたはずの彼も、エルナが寝室に戻ってくるとは思わなかったようだ。

 一方、何も知らないカールハインツは、にこやかにベッドに歩み寄る。


「ご気分はいかがですか? 傷は痛みますかな?」

「これで、だいぶ……良いのだと思うよ」


 老医師の声に答えたフリッツは、少女の姿を認めてふいと視線をそらせた。

 エルナは目を伏せたままだったから、彼の様子には気づかない。

 ゲラルトとカールハインツが、意味ありげに視線を交わしていた。


「では、傷を診ますので、こちらにお座りいただけますでしょうか」


 老医師は傍にあったスツールを手で示す。

 フリッツは脇腹の傷をかばいながらベッドを降り、言われた通りに腰掛けた。

 ゲラルトが、医師の指示を仰ぐまでもなく、慣れた手つきで主のシャツのボタンをはずしていく。


 露わになったフリッツの上半身は、右肩と腹部を包帯でぐるぐる巻きにされており、肌の大部分が隠されていた。

 その布越しにはっきりと見て取れる、細身でありながらもしっかりと硬い筋肉がついた彫刻のような身体。

 とても皇帝という地位にある者とは思えない強靭な肉体は、フォルカーが鍛え上げたものだ。


 エルナはそんな彼を直視することができず、視線をそらせ続けていた。


「肩の傷から診られますか?」


 ゲラルトが肩口にある包帯の結び目に手をかけると、老医師が「待ちなさい」と制止した。


「エルナ様、陛下の肩の包帯を外していただけますか」

「えっ? わたしがですか?」


 フリッツも侍医の言葉に驚いたらしく、一瞬エルナを見る。

 しかし、何も言うことなく視線をそらせた。


 どうしよう。


 医術の心得がなくても、包帯を外すくらいはできるだろう。

 しかし、その細い布を解いてしまったら、そこにあるのは……。


 恥ずかしすぎて動けなくなっていると、ゲラルトが「私がいたしましょう」助け舟を出してくれた。

 しかし、カールハインツは静かな声ながら、きっぱりとゲラルトを退ける。


「いいえ。私はエルナ様にお願いしているのです。エルナ様、よろしいですね?」

「は、はい」


 この老医師の声と表情には、身分の高い者特有の圧力がある。

 そんな彼に逆らえるはずもなかった。

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