(4)
ゲラルトにはお茶を飲んでも良いと言われたが、エルナは水差しからグラスに水を注いだ。
一気に飲み干し、ふうと一息つく。
窓を見ると厚いカーテンの輪郭がぼんやりと明るくなっていた。
そろそろ夜明けも近いのだろう。
カーテンを開けて外の景色を眺めてみたかったが、窓に近寄ることは禁じられていた。
この部屋の出入りを許されているのは、側近のゲラルトと侍医のカールハインツのみ。
フリードリヒは皇帝という立場にも関わらず、身の回りの世話はすべてゲラルトが担当し、侍女の一人もつけていない。
だから、ちらりとでも窓に女性の影が映るのはまずいのだ。
もちろん、エルナが部屋の外に出ることも厳禁だ。
皇帝の居室に至る通路は、常時二人の近衛兵が守っているのだという。
扉や壁が厚いため、よほどの大声でない限り、彼らに室内の話し声は聞こえないはずだが、念のため、扉にも近づかないように言われていた。
特にすることもないので、フレデリクが食べた夜食の皿やカップを、ワゴンの上に片付けた。
その後、空腹ではなかったが、籠からパンを一つ取り出した。
小麦だけで焼いた柔らかな最上級のパン。
表面には浅いきつね色の焼き色がついており、二つに割った中身は真っ白できめ細かい。
エルナが勤めていた使用人向けのパンを焼く工房とは別の、貴人向けの工房で焼かれたパンだ。
このパンを初めて食べた時は、あまりの柔らかさと豊かなバターの風味に驚いたものだ。
けれども、何度か口にするうちに、どこか物足りなさを感じていた。
普段、エルナが焼いていたのは、ずっしりと重くて硬く、ライ麦特有の酸味がしっかりとある力強いパンだったから、口に合わないのかもしれない。
「でも、このパンに林檎を合わせるとしたら……?」
小麦だけで作るパンに林檎を合わせたらどうかという考えが浮かんだ矢先に、この部屋に匿われることになってしまった。
「恋人と逃げた」などという、とんでもない理由づけであの工房を去ってしまったから、工房長のオイゲンに林檎のパンを認めてもらう機会は、もう二度と無いだろう。
他の職人たちと違って、上級の工房に移りたいという野望は皆無だったが、父の姿が重なる彼には認められたかった。
自分の力を試してみたかった。
エルナは小さくため息をつく。
フリッツのためなら何だってできる。
それは嘘ではないが、やはり心残りはある。
パン生地のなめらかな手触りや、パンが焼ける時の音や香りが恋しかった。
「新しい林檎のパンが完成したら、フリッツは喜んでくれるかな?」
エルナが焼いた熱々の林檎のパンを頬張る彼の、くったくのない笑顔を思い出す。
野草で作ったハーブティーの香り。
二人きりの粗末な食卓。
多分もう、あんな幸せな日々は戻らない。
すぐ隣の部屋に、彼はいるのに——。
ぼんやりと、感傷にひたっているうちに少しうとうとしたのかもしれない。
物音にはっと目覚めると、隣の部屋からゲラルトが一人で出てきた。
「フレデリクさんは?」
「怪我のせいで疲れやすいらしくて、しばらく休むそうです。もう、熱もありませんから、放っておいて構いませんよ。もうしばらくしたら、カールハインツ翁もいらっしゃるでしょうし」
ゲラルトはそう言いながら、窓にかかるカーテンを勢いよく開けた。
ずっと薄暗い室内にいたから気付かずにいたのだが、もうとっくに夜は明けていた。
大きな窓から差し込む外光が眩しくて、エルナは思わず目を細めた。
「ずいぶん、遅くなってしまいましたね。お茶でもお持ちしましょうか。あぁ、そういえば、朝食がまだでしたね。我が君の代わりに病人食ばかり食べさせられて飽きたでしょうが、何かお持ちします」
ゲラルトがワゴンを押して扉に向かおうとすると、隣の部屋から陶器製のベルの音が聞こえてきた。
「呼んでますよ?」
ゲラルトがこの部屋に戻ってきてから、わずかな時間しか経っていない。
ベルを鳴らしたのはフレデリクだろう。
急用なのかもしれない。
しかし、彼はベルの音をよく聞こうと耳をすませた後、すました顔でワゴンを押して歩き始めた。
「私はこのワゴンを運ぶのにとっても忙しいですから、エルナ、あなたが代わりに行ってくれませんか?」
「え? でも……」
「あぁ、忙しい、忙しい。では、お願いしましたよ」
そう言うと、彼はそそくさと部屋を出て行った。
その間にも、せかすようなベルの音が聞こえてくるから、エルナは仕方なく椅子を立った。
フレデリクには苦手意識を感じていたから、彼と二人きりになるのは正直、気が重かった。
扉を開けると、寝室のカーテンも開かれており、日差しが差し込んでいた。
恐る恐る部屋の中に入り数歩進むと、天蓋のカーテンの向こうから声がする。
「ゲラルト。この怪我はどうしたんだ。一体、何があったんだ」
「え?」
まるで、自身の怪我を初めて知ったような物言いだった。
けれど、それ以前に、彼の口調ではっきり気づく。
彼は——。
「フ……」
エルナの足がその場に縫いとめられた。
「また、フォルカーか? それにしても、この怪我は…………ゲラルト? どうした?」
呼び寄せた側近がなかなか近くに来ないことをいぶかってか、カーテンの向こうの人影が動く。
そして彼が、扉の前に立ち尽くしていた予想外の人物に気づいた。
「エ……ルナ? どうして、君が! い……っつ!」
驚きのあまり、座った姿勢からいきなり立ち上がろうとした彼が、脇腹の激痛に倒れこんだ。
両手で傷を押さえて上半身を折り曲げ、苦痛に喘ぐ。
「フリッツ! 急に動いちゃだめよ。大怪我してるんだから!」
エルナは慌てて駆け寄った。
ベッドの上に乗りかかり、彼の肩を支える。
「……くっ」
「ほら、ゆっくり座って」
エルナの声と手助けで、彼がゆっくりと身体を起こした。
大きく見開かれたエメラルドグリーンの瞳は少し潤み、驚きに揺れている。
顔色は青白く、唇は苦痛の名残を逃そうと震える息を吐く。
「う……、エ……ル……」
「大丈夫? まだ、痛む?」
汗でこめかみに貼り付いていたダークブロンドの髪を、そっと指先で払ってやった。
愛おしさが指先に宿る。
胸が震える。
「エル……ナ」
かすれた声で名を呼ばれた次の瞬間、彼の髪に触れた手が捕らえられ、強く引かれた。
彼のもう一方の手が腰に回り、抱き寄せられる。
ことりと、エルナの肩に彼の額が置かれた。
「僕はまだ、夢をみているのだろうか?」
彼が不安げにつぶやいた。
「夢?」
「ずっと……君の声が聞こえていたんだ。もしかしてこれは、夢の続き? 目が覚めたら君は消えてしまう?」
頼りないものを手放すまいと、彼の手に力が込もる。
「違うわ。夢なんかじゃない」
彼の言葉を否定しつつも、エルナもふと不安になる。
もう二度と会えないかもしれないと思った彼が、今、ここにいる。
けれど、もしかしたらこれは、都合の良い夢じゃないのかとも思う。
次の瞬間には、また一人で、このベッドで目覚めるのかもしれない。
夢と現実がないまぜになっていく心細さにかられ、エルナは彼にしがみついた。
「……会いたかった」
そう。
彼に会いたかった。
同じ身体の中にいるフレデリクやフォルカーではなく、フリッツに。
こうしていても、彼はすぐに消えてしまいそうで、怖くなる。
だから、彼の存在を、決して揺らぐことがないほどに実感したかった。
エルナの手に応えるように、彼の腕にもさらに力が込もる。
それが傷に響いたのか、彼の体がびくりと震えた。
「……痛っ! くっ……ぅ」
激痛に耐えようと、彼の全身が硬直した。
その力の強さに、エルナは息が止まりそうになった。
それでも必死に手を伸ばし、彼の背中をさする。
「フリッ……ツ。だ、だいじょう……ぶ?」
しばらくして、彼がゆっくりと息を吐き出すと同時に、強い拘束が解けた。
「……平気だ、よ」
「ごめんなさい。怪我をしてることを知っていたのに、無理をさせて」
「違うよ。君のせいじゃない。でも、これで目が覚めた」
そう言うと彼は、両手をエルナの肩に置き、そっと自分から引き離した。
じっと見つめてくる瞳は真摯ではあるが、先ほどまでのふわりとした甘さはない。
肩に置いた手はそのままだったから、その距離から逃げることはできない。
近づくことも、きっと許されない。
エルナは自分と彼との間に、一本の線が引かれたことを感じた。
いや、これは、もともと二人の間にあった線だ。
互いに見えないふりをしていただけで。
「すまない、エルナ。君を僕の事情に巻き込んでしまった。限られた人間しか立ち入ることのできないこの部屋に君がいるということは、そういうことなのだろう?」
エルナは答えることができないまま、彼を見つめた。
「僕が何者なのかは、もう、知ってる……ね?」
エルナは小さく頷いた。
彼は、これまで決して見せることがなかった皇帝の顔を見せようとしている。
エルナのよく知るフリッツではなく、この国の皇帝、フリードリヒの顔だ。
「何が起きたのか僕はまだ知らない。しかし、僕の身体がこんな状態なんだ。かなり深刻な事態になっていることは想像がつく。君は無事なのか? 怪我はない? 怖い思いはしなかったか?」
エルナは自分が無事であることを知らせるために、無言のまま何度も頷いた。
それだけしかできなかった。
彼のエメラルドグリーンの瞳の奥がゆらいでいる。
仮面の向こうに、彼の本当の姿が透けて見える。
彼も辛いのだ。
そう思うと、せつなさが何倍にもなる。
「すまない。何もかも、僕なんかが君に関わってしまったことが原因だ。だから、できるだけ早く、君が元の生活に戻れるよう尽力を尽くそう。充分な保障もしよう。僕に償いをさせてほしい」
一体、何を償うというのだろう。
彼との間には楽しかった思い出しかないのに、謝罪されてはすべてが色褪せてしまう。
だからエルナは喘ぐように口を開いた。
「い……いいえ。そんなことをおっしゃらないでください。陛下」
使い慣れない敬語を選んで使い、彼に直接『陛下』と呼びかけると、胸がはりさけそうになった。
フリッツもエルナが発した『陛下』という敬称に、はっと目を見開いた。
この言葉一つで、二人の間にあった線は、決定的な見えない壁となって二人の間にそびえ立つ。
すぐそこにいるのに。
彼の両手が肩に置かれ、膝が触れ合い、互いの体温も息遣いまでも感じられる距離にいるというのに。
お互いがなんて遠いのだろう。
「本当に君にはすまないことをした。何か望みがあれば言って欲しい」
「いいえ……。いいえ、へい……」
エルナはふるふると首を横に振った。
もうこれ以上、彼を陛下とは呼べなかった。
これ以上、自分の意思で彼との間に壁を築くのは辛すぎる。
「ごめん……なさい。わ……たし……」
身体をよじり、彼の手を振り解くと、柔らかな足元にバランスを崩しながら、ベッドを降りる。
そして、やはり柔らかな絨毯の上を走り抜けると、リビングへと続く扉を開けた。
「エルナ!」
彼の声が聞こえたが、それを拒絶するように、そのまま後ろ手に扉を閉めた。




