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(10)

 しばらくすると、隣の部屋で扉が開く音がした。

 エルナは寝室から出ていないから想像だが、寝室の隣にもう一つ部屋があり、そこから廊下に出られるようだ。

 食器がぶつかる音が聞こえてくるから、お茶を淹れてくると言っていたゲラルトが戻ってきたのだろう。

 エルナは慌てて、用意されていた席に戻った。

 両手を膝に乗せて姿勢を正し、何事もなかったように装う。


「エルナ。お茶を用意しましたから、こちらへどうぞ」

「でも……」

「我が君はまだまだお目覚めになりませんので、少しお休みください」


 ドアから顔をのぞかせたゲラルトが言うので、少々後ろ髪を引かれる思いをしながら隣室に向かった。


 寝室の隣はリビングだった。

 部屋の中央の丸テーブルに置かれた燭台にしか明かりは灯されていなかったが、真上にあるシャンデリアの飾りが炎の色を複雑に反射させていた。

 大輪の薔薇が刺繍された布が貼られた、揃いのデザインの大きなソファーと肘掛け椅子が、テーブルを囲んでいる。

 ソファーを勧められたエルナは、真ん中に座るのも憚られて、すみっこに浅く腰掛けた。

 庶民の中でも、どちらかというと貧乏寄りの生活をしてきたから、あまりにも煌びやかすぎて居心地が悪い。

 しかし、ここがフリッツの私室なのだ。

 改めて彼と自分との身分の差を思い知らされ、胸が苦しかった。


「どうぞ」


 青い植物模様があしらわれた金縁のティーカップが、同じ模様の受け皿付きで手渡された。

 カップの持ち手は、下手な持ち方をするとぽきりと折れてしまいそうなほど細い。


「ありがとうございます」


 エルナは恐る恐るそれを受け取った。

 蝋燭の灯りの中で深い赤に見える紅茶は、驚くほど芳醇な香りを漂わせていた。


 これが本物の紅茶。

 おそらく、最高級品の。


 毎日こんなお茶を飲んでいる人に、野草と林檎の皮で淹れたハーブティーを出していたのかと思うと、恥ずかしさに消えてしまいたくなる。

 彼はいつも「おいしい」と喜んでくれたが、本当にそう思っていてくれたのだろうか。


 初めて飲んだ本物の紅茶は、エルナの口にはあまりにも苦かった。

 その際立った味と香りが、貧乏人を意地悪くあざ笑っているようにも思えた。


「ケーキも一緒にお持ちできたら良かったのですが、貴方をこの部屋に匿っていることは極秘ですのでね。これだけくすねてきました。お茶に入れてもおいしいですよ」


 ゲラルトがポケットを探り、何かを取り出した。


「どうぞ」と手渡された紙包みを開くと、紫色をした薄い紙のようなものに砂糖をまぶした、小さなお菓子のようなものが出てきた。

 恐る恐る一枚摘んで口に入れると、甘み以上に上品な花の香りが口いっぱいに広がり、その素材が花びらであることを知る。

 こんなに美しく繊細なお菓子が存在するなんて、想像すらできなかった。

 周囲の何もかもが、自分がこれまで暮らしてきた世界と全く違っていた。


 あぁ。

 もう、だめだ。


「エ、エルナ? どうしたんですか?」


 ぶわりと浮かんだ涙は、どうすることもできなかった。

 せめて、みっともなく泣きじゃくったりしないよう、両手で顔を覆い、背中を丸めて必死に唇を結ぶ。


「う……、うう……っ」


 それでも、唇の端から漏れる嗚咽を止めることができなかった。


「エルナ、大丈夫ですか? えぇと……あぁ、そうか、怖かったんですよね。貴女には、本当に大変な思いをさせてしまって……」


 床にかがみこみ、上目遣いでおろおろと慰めてくるゲラルトに、首を横に振る。


「違うんですか? あ、我が君が心配なんですよね。大丈夫ですよ。カールハインツ翁もおっしゃっていたではないですか。しばらく安静に……え? 違う? じゃあ……」


 ゲラルトが何を言っても、首を横に振った。

 彼の口から正解が出るはずがない。

 この国の最上位に、当たり前のよう生きている人には、エルナの苦悩は分かるはずがないのだ。

 きっとそれは、フリッツにも理解できないこと。

 そう思うと、さらに辛くてたまらなくなり、涙がいっそう溢れてくる。


「うぅ……っ、な……んでも、な、い……ですから……うっ……」

「ああっ、もう! 我が君、申し訳ありません」


 もう何も思いつかなくなったのか、ゲラルトはそう言うと、静かに肩を震わせるエルナのすぐ前に膝立ちになった。

 そして、両腕をエルナの背中に回すと、ぐいと力任せに自分に引き寄せた。


 予想もしない出来事に、エルナは少しだけ腰を浮かせた状態で、彼の腕の中にすっぽりとおさまってしまった。


「もういいです。えぇ、女の子の涙は男には理解できないものなんです。私には幼い妹がいるんですけどね、しょっちゅう泣くんですよ。でも私にはその理由が分からなくて、よかれと思ってしたことで、余計泣かせてしまうんです。でも、そこがまた可愛いといいますか……。あぁ、いや、それは関係ないですね」


 ゲラルトは、驚きで固まったエルナの背中を妹をあやすようにぽんぽんと叩きながら、言い訳がましい言葉を早口でまくしたてる。


「あなたの涙の意味を私に察しろと言われても、それは無理な話です。女の子は難しすぎます。でも、言いたくないなら、とりあえず泣いておけばいいです。それだけでも、楽になりますから、ね。私が相手では、ご不満もおありでしょうが……。あぁ、我が君に知られたら、これは大問題に……」


 エルナが黙ったままでいるから、この体勢でいることが、余計にいたたまれないのだろう。

 ゲラルトの言葉は止まることがない。

 しかし、矢継ぎ早な、少々間の抜けた言葉たちを聞いているうちに、エルナの涙は止まり、少しずつ落ち着いてくる。


「あ……りがとう、ございます」


 両手でゲラルトの体を押して離れると、彼は心配そうな顔をしていた。


「大丈夫ですか」

「はい、おかげですっきりしました」


 それでも、テーブルの上に置かれた紅茶と花の砂糖漬は、これ以上口にする気が起きなかった。

 豪華すぎる内装の部屋も息苦しく、全方向から押しつぶされそうだ。


「フリ……いえ、陛下の様子を見てきます」


 エルナはソファーから立ち上がると、逃げるように寝室に戻った。

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