(9)
優美な曲線で作られた燭台があちこちに置かれ、柔らかな明かりが室内を照らし出している。
白い壁に施された複雑な蔦模様が金色に浮かび上がっている。
正面の窓は、金色の房飾りがついた絨毯と同じ色のカーテンで閉じられており、今出てきた扉の右側も、波のようにドレープが寄せられた濃緑のカーテンが天井から下がっていた。
「こちらです」
ゲラルトに続いて、布に閉ざされた角を曲がると、そこに、白く長い上着を身につけた少し腰の曲がった老人が、エルナを迎えるように立っていた。
年齢は七十代ぐらいだろうか。
深い皺がきざまれた目尻が優しい印象の小柄な男だ。
「彼は我が君の侍医、カールハインツです。カールハインツ翁、こちらがエルナ嬢です」
「お会いできて光栄にございます。エルナ様」
老医師が右手を胸に当て、深々と頭を下げた。
「え? え? あの……エルナ・フレンツェンです」
エルナはとまどいながらも、頭を下げた。
彼も皇帝の侍医であるなら、相応の身分を持つに違いない。
なのに、エルナに対してのこの恭しい態度は、どういうことだろうか。
ゲラルトに勧められた椅子も、肘掛けに葡萄の蔓が彫り込まれており、座面や背もたれには異国風の織物が貼られた豪華なものだ。
エルナが座るのを待って腰掛けたカールハインツの椅子は、陰になってよく見えないが、少なくとも肘掛けはついていない。
ゲラルトに至っては、立ったままだ。
あまりにも丁重な扱いに違和感を感じたが、濃紺の布に囲まれた向こうに、人の気配を感じてはっとする。
蝋燭の光が届かない暗がりに横たわっているのは、彼に違いない。
思わず立ち上がりかけたが慌てて座り直し、両手を膝の上に置いた。
「フリッ……いえ、皇帝陛下のお怪我の具合はいかがでしょうか」
どんな言葉遣いで話して良いか分からなかったが、『フリッツ』と呼んではいけない気がして『皇帝陛下』と言い直す。
「ご心配には及びません。脇腹の傷がいちばん大きく深かったのですが、幸いにも内臓を傷めるほどではございませんでした。安静にしておられれば、回復には十日もかからないものと」
「よかっ……たぁ」
エルナは胸を撫で下ろした。
応急処置をしたゲラルトが「傷はそう深くない」と言っていたし、フォルカーも自分の足でエルナの部屋を出ていったくらいだ。
だから、きっと大丈夫だと自分自身に言い聞かせていたのだが、心配で仕方がなかった。
でも、医師が保証してくれたのなら安心だ。
「今は、眠っているのですか?」
エルナはカーテンの隙間に目をやった。
さっき、もぞもぞと動く気配がしたが、今は全く動かない。
「ええ。傷を負われたせいか発熱されまして、このまま起きているのが血の気の多いフォルカーでは傷にさわりますので、お薬で強制的に眠っていただきました。丸一日は目を覚まされませんでしょう」
「眠りが浅いと、別の人格が出てくる可能性があるのですよ。パウルだと厄介ですし、我が君やフレデリクが出てこられても、現状を理解していただくのに時間を取られてしまいます。だから今は、お身体を休めていただくことを優先させたのですよ」
「そう……ですか」
二人の説明に納得しつつも、彼が眠ってしまっていることに落胆する。
起きていたとしても、フォルカーだったようだが、それでも。
エルナは豪華な天蓋の向こうの暗がりに、また目を向けた。
彼がそこにいると思うだけで、そわそわする。
きっと、これ以上は彼に近づいてはいけないだろう。
だから、ほんのちょっと、見るだけ——。
「…………様、エルナ様」
「は、はいっ」
彼をそっと盗み見ているときに名を呼ばれ、びくりとなった。
てっきり、皇帝を見ていた無礼を咎められると思い、恐る恐る正面を向くと、老医師は穏やかな笑みを浮かべていた。
「私は一度帰りますので、陛下の看病をお願いいたします。陛下はしばらくはお目覚めになりませんので、看病といいましても、額を冷やしている布を替えていただくぐらいですが」
「わたしが? いいのですか?」
エルナは瞳を輝かせた。
この国で最も地位の高い彼のお世話を任せられるとは思わなかった。
見ることも近寄ることも、許されないと思っていたほどだ。
けれど、医師から頼まれたのなら、ずっと彼のそばにいることができる。
ほんのわずかなことかもしれないが、彼の役に立つことができる。
カールハインツの隣に立つゲラルトにちらりと視線を向けると、彼も小さく頷いて同意を示した。
「ぜひ、お願いいたします。私もこの年ですから、寝ずの看病は体に堪えますゆえ」
「ありがとうございます」
「いやいや。礼を言うのは私の方でございますよ。何か気になることがございましたら、ゲラルト殿を通じてお知らせください。くれぐれも陛下をお頼み申します」
そう言うとカールハインツはゆっくりと立ち上がり、寝室を出て行った。
その後を追うように、ゲラルトも「お茶を淹れてきましょう」と部屋を出ていく。
エルナは皇帝陛下の寝室で、眠っている彼と二人きりになってしまった。
静まり返った部屋に、ほんのかすかに、寝息が聞こえてくる。
熱があると言っていた通り、少し苦しげな早い息遣いだ。
「フリッツ……」
いてもたってもいられなくなって、椅子から立ち上がる。
少しだけカーテンを開けてみると、ぼんやりとした蝋燭の灯りが彼の顔に届く。
暗がりを背景に、彫刻のように美しく整った横顔が浮かび上がって見えた。
頭には包帯が斜めに巻かれており、額には濡らした布が置かれていた。
ベッドがあまりにも広くて、真ん中で眠っている彼までが遠い。
もどかしくなったエルナは、ベッドに片膝をかけて身を乗り上げ、彼ににじり寄った。
「大丈夫? 苦しいの?」
聞こえていないと分かっていても、話しかけずにいられない。
彼の額に置かれていた布を手に取り、首筋に浮かんだ汗をそっと拭った。
「でも、お医者様はそんなに深い傷じゃなかったって、おっしゃってたわ。だから、大丈夫よ」
彼を元気づけるように小声ながらも明るい声で話しかけると、一旦ベッドを離れる。
小さなテーブルの上に用意されていた水に布を浸し、軽く絞って額に戻してやると、冷たさが心地よいのか彼が小さなため息をついた。
「気持ちいい?」
問いかけると、熱い息を漏らす彼の唇が少し緩んだ気がする。
「そう。よかった。わたしがついてるから、ゆっくり休んで……ね」
もう会えないかもしれないと思っていた愛おしい人と、二人きり。
複数の人格を持つという彼だが、眠っている顔はフリッツにしか見えない。
本当は皇帝陛下だという彼の顔をじっと見つめていても、誰にも咎められることはない。
「早く良くなって」
不謹慎だと思いつつも、彼のそばにいられることが嬉しかった。




