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(8)

 宿舎を出てしばらくは、二人は淡い月明かりを避けて、建物や木の影の濃い部分を選んで歩いた。

 以前来たことのある薔薇園は、もう造園作業が終わったのか、囲いや足場などが取り払われ、すっきりとしていた。

 ただ、黒い茂みの中にぼんやりと浮かび上がって見える大理石の天使の像が、不気味に見えた。


 薔薇園を過ぎると、もうエルナの来たことがない場所だった。

 城勤めが長く、間諜活動をしているマヌエラは、そんな場所でも迷うことなく進む。

 すぐ目の前にいても全く気配を感じられない彼女を見失わないよう、エルナは彼女と手を繋いで必死についていった。


 やがて、建物の端にある尖塔にたどり着くと、マヌエラは小さな扉を開けた。


「ほら、入って」


 一切の光のない暗闇に躊躇していると、彼女に内部に押し込まれた。

 中に何があるのか全く見えないから、恐る恐る両手を広げて様子を探ってみたが、手に触れるものはなかった。

 足元は石造りのように硬い感触だ。

 どれだけ気をつけても鳴らしてしまう足音が、左手に遠く反響していくから、そちらに向かって通路になっているのだろう。

 おそらくここは、その通路の端の行き止まりだ。


 自分が音を立てなければ全くの無音。

 視界も黒一色に塗りつぶされている。

 さっきまで繋いでいた手は離され、マヌエラの気配も全く感じられない。


「マ……ヌエ……ラ? どこ?」


 エルナは真っ暗闇の中、一人で取り残された気がして、身震いする。


「エルナ、こっち」


 マヌエラの囁き声が、右側の低い位置から聞こえた。

 思いがけない場所からの声に、驚きで思わずよろけると、右足が何か柔らかいものにぶつかった。

 彼女はどういう訳か、足元にかがみこんでいるようだ。


「下だよ。かがんで」


 エルナは言う通りにすると、手探りでマヌエラを確認した。

 相変わらず気配を感じないが、触れた感触と温もりにほっとする。

 彼女はエルナのその手を捕まえると、そのまま前に伸ばす。

 指先に触れたのはレンガのようなザラザラした感触だった。

 彼女に取られた手が、ひと一人がくぐれるぐらいの四角い穴をなぞっていく。


「ここに、穴がある。分かるかい?」

「うん」

「ここをくぐって。頭をぶつけないように気をつけな。向こう側に出れば、立っても大丈夫だから」


 四つん這いになって穴をくぐる。

 そのまま数歩進んでから、頭上を手で探りながら恐る恐る立ち上がると、上部には何も触れるものはなかった。

 ただ左右はかなり狭く、すぐに両手がざらざらした壁にぶつかった。

 物音は前方に反響するから、目の前に通路が伸びていることが分かる。


「ちょっと壁に寄っておくれ」


 いつの間にか彼女は、すぐ後ろに立っていた。

 エルナが壁に張り付いて道を開けると、彼女は窮屈そうに後ろを通り抜ける。


「ちょっと、太ったかね? エルナが林檎のパンを何度も試食させたからいけないんだよ」

「えっ? わたしのせい?」

「うそうそ。おいしすぎて、誘惑に勝てなかったあたしがいけないんだ」


 おそらくここまでくれば、多少は気を抜いても大丈夫なのだろう。

 マヌエラが軽口をたたきながら、先を歩いていく。

 相変わらず、すぐ前を歩く彼女の背中も見えないほどの真っ暗闇なのに、彼女は何の躊躇もなくずんずん進んでいく。

 通路が狭くて手を繋ぐのが難しかったから、エルナは彼女のエプロンの結び目をしっかり掴んでついていった。


 暗闇では時間の感覚もおかしくなるらしく、どれだけ歩いたか分からない。

 何度か角を左右に曲がった後、ようやくマヌエラが立ち止まった。


「ほら、上、見てみな」


 彼女の声に顔を上げると、そこは煙突のような構造になっており、建物の三階分程度の高さにぽっかりと穴が空いていた。

 そこから、ランプを手にしたゲラルトが覗き込んでいる。

 久しぶりに見る明かりにほっとする。

 彼がいるということは、ようやく目的地に着いたということだ。

 ただ、そこはあまりにも高かった。


「梯子を降ろしますから、少し下がってください」


 その直後、縄梯子がするすると降りてきた。


「これを、上るの?」


 片側の縄を掴んで揺らしてみると、上部まで波のようにたわみが伝わっていく。

 左右の縄は丈夫そうだし板も幅広いから安全なのだろうが、自力でこれを上って行くことを思うと恐ろしい。


「ぐらぐらしないように、下であたしが押さえてるよ。下を見ると怖くなるから、上だけを見てゆっくり上りな。頑張ったら、会いたい人に会えるんだからさ」


 エルナの不安を汲み取って、マヌエラが背中を叩きながら励ましてくれた。


「う……うん」


 一歩一歩、梯子を上る。

 体重を預けた二本の縄がぎしぎしと軋む。

 緊張に汗をかく手で、必死に縄を握りしめ、踏み外さないように慎重に、光に向かって上っていく。


「ほら、エルナ。頑張って」


 上と下から声がかかる。


「もう少し」


 あと数段となったとき、ゲラルトがランプを傍に置いて、手を伸ばしてくれた。

 必死にその手を取ると、ぐいと体が引き上げられ、ようやく頂上にたどり着いた。


「はぁ……怖かったぁ」


 大きく息を吐き、床にへたり込む。


「お疲れ様。よく頑張ったね」


 その声に後ろを向くと、エルナが到着してまだ数秒もたっていないというのに、マヌエラがすぐ後ろにいた。


「えっ! いつの間に?」

「あたしは梯子なんて使わないからさ」


 そう笑いながら、縄ばしごを穴から引き上げる。

 その梯子のいちばん端に、エルナの鞄がくくり付けられていた。


「ここ……は?」


 エルナはあたりを見回した。


「ここは、我が君の衣装部屋です。我が君は引きこもりということになっているので、衣装はほんのこれだけしかお持ちではないのですよ」


 ゲラルトが肩をすくめて言う。


 その部屋は、エルナの宿舎の部屋が十も入りそうなほど広かった。

 片側の壁はずらりと掛けられた男物の豪華な衣装で埋め尽くされ、どこに壁があるのか分からなかった。

 ランプの明かりが、衣装の袖口や裾に繊細な模様を浮かび上がらせている。

 ところどころ、丸や四角の形にキラキラ輝いて見えるのは、宝石が縫い付けられているのだろう。

 優美な曲線の輪郭を持つ純白のチェストや、金色の花飾りが囲む大きな姿見、赤いビロード貼りの椅子、背の高い人型にかけられた毛皮に縁取られた重厚なマント。


 「ほんのこれだけ」とゲラルトは言ったが、この大量の煌びやかなものたちすべてが、フリッツ一人の持ち物なのだ。

 エルナの知る世界とはかけ離れた、想像を絶する豪華な空間にくらくらした。


「じゃあ、エルナ。あたしは戻るよ」


 足元の声に目を落とすと、マヌエラが穴から頭だけを出していた。

 縄ばしごは床に引き上げられたままだ。


「行っちゃうの?」

「フォルカーがやらかした跡を完全に消しておかないと。どこに血を落としてきたか分からないからね。また、様子を見にくるよ」


 そう言って彼女は、ふっと穴の中に消えた。

 真っ暗闇の中、どうやって降りたのかは分からないが、物音は一切聞こえなかった。


「さてと」


 ゲラルトはチェストに立てかけてあった正方形の板を手にした。

 衣装部屋の床はその板と同じ大きさの大理石が敷き詰められているが、ゲラルトが持っているものはよく見ると、木材に大理石そっくりの絵が描かれている。


「この抜け道はおそらく、ブラウヒューゲル皇国の初代皇帝がこの城を建てられたときに、作らせたものです。その後、誰もその存在を知らなかったのですが、数年前に、フォルカーが発見したんです」


 ゲラルトは穴に板をかぶせると、固定するように板の端を踏んだ。

 ことんと、あるべき位置に収まると、木製の板は冷たく硬い大理石と同化した。

 作業を終えると、彼はエルナの前にすっと手を出した。


「荷物はそれだけですか、お持ちしましょう」

「いえ、大丈夫です」


 彼は皇帝陛下の側近で、この国の摂政の息子のはずだ。

 平民の荷物を持たせて良いような人物ではないから遠慮したのに、彼は「いいえ、お持ちします」と半ば強引に鞄を奪っていった。

 鞄とランプで両手を塞がれながら、ゲラルトが不自由そうに扉を開ける。


「では、我が君の元に案内しましょう」


 彼に続いて扉をくぐると、身長が一瞬縮んだ気がしてぎょっとする。

 思わず足元を見ると、毛足の長い濃緑の絨毯に靴が半分埋もれていた。

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