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(3)

 工房に足を踏み入れると、林檎の甘い香りがいちだんと強くなる。


「うわ……いい匂いだね。ここでパンを焼いているんだね」


 青年は嬉しそうに目を細めると、物珍しそうに辺りを見回した。

 工房の中央には大きな作業台。

 布を被せた大きな捏ね鉢には、発酵を待つパン生地が眠っている。

 ライ麦や小麦の入った大きな袋。

 ぷくぷくと泡が立つ酵母が入った、たくさんの瓶。

 部屋の奥には鉄製の扉のある煉瓦作りのパン窯が二つと、その隣に鍋がかかった調理用の窯がある。


 エルナは扉の近くにあるテーブルに、パンを乗せたトレーを置いた。

 彼は、同じテーブルに食べかけのパンが乗った皿と、冷めたお茶が入ったカップが置かれているのに気付き、眉を寄せた。


「君も食事中だったんだね。邪魔しちゃって申し訳なかったね」

「そんなこと気にしないで。今、お茶を……と思ったけど、先にその腕の傷を手当てした方がいいわ」


 エルナは白いシャツに滲んだ赤い色を指差した。


「ちょっと転んだだけなんだ。たいした怪我じゃないよ」

「ダメよ。化膿したらどうするの? そこに座って、ちょっと待ってて」


 肘を押さえて遠慮する青年を無理矢理椅子に座らせると、エルナは水を汲んだ桶と、清潔な布と薬を持って戻って来た。


「いいって言ってるのに」

「すぐに終わるから」


 床に膝を付けて、せっつくように顔を見上げてくるエルナの様子に観念したのか、青年は小さく息をついた。「驚かないでね」と言いながら、たっぷりのフリルが寄せられた袖を肘までまくり上げる。


「……!」


 エルナは危うく悲鳴を上げそうになった。

 そこにあったのは、手首から、まくりあげた袖の奥にまで繋がった大きな古傷。

 ぎざぎざに引き攣れ赤黒く変色したその周囲は、皮膚が固く盛り上がり、あまりにも醜い。

 その傷の上に新しくできた小さな擦り傷が、血をにじませていた。


 青年は、思わず止まってしまったエルナの手から濡らした布を取り上げると、自分で新しい傷口を拭った。


「幼い頃に大怪我をして……ね。その傷跡なんだ」


 エルナが固まってしまった理由を察して、青年が説明する。


「あの……ごめんなさい」

「どうして謝るの? 手当してくれようとしたのに?」

「だって……この傷跡、見られたくなかったんじゃないの?」

「そんなことないよ。ただ、こんなに醜い傷だから、君を怖がらせてしまうんじゃないかと思ってね。……つっ!」


 エルナが小さな容器に入った薬を、遠慮がちに傷口に擦り込むと、少ししみたのか青年が眉を寄せた。


 ちっぽけな擦り傷だって痛むのだ。

 こんなに大きな傷跡が残る怪我を負ったときは、どれほどの苦痛だっただろう。


「こんなに大きな怪我、痛かったでしょう? 小さい時だったのなら、なおさら……」

「いや。怪我をしたときのことは全然憶えていないんだ。気がついたらベッドに寝かされていてね。長い間眠ったままだったらしくて、目覚めたときには怪我も治りかけていたんだよ。だから、さほど痛みも感じなかった」

「でも、憶えていないのは、それほど辛い思いをしたってことだわ」


 彼の記憶に残っていなくても、その苦痛の跡はこれほど残酷に身体に刻み込まれている。

 エルナは胸が苦しくなり、薬を塗り終えた指先で、手首まで続く古傷をそっと撫でた。

 そんなことをしても醜い傷跡が消えるはずもないが、そうせずにはいられなかった。


 彼は、一瞬驚いたような顔をした。

 それから「ありがとう」と微笑みながら袖を下ろし、服の上から腕をさする。


 柔和な笑みを浮かべた口元と、長い睫毛が影を落とすエメラルドの瞳。

 さらりと流れた美しい髪。

 腕を押さえて俯く彼は、どこか儚げで美しい。


 思わず見とれていると、ふっと顔を上げた彼と、ばっちり目があってしまった。


「あ、あのっ、お茶を入れるね」


 どぎまぎしながら窯に向かいかけたところで、彼が「お腹が空いている」と言っていたことを思い出す。

 慌ててテーブルに戻り、隅によけてあったパンのトレーを「はい」と彼の前に引き寄せると、彼がくすりと笑った。


「君って、優しいね。名前を聞いてもいいかな?」

「エルナ……よ」

「エルナ? いい名前だね。僕のことは、フリッツって呼んで」

「あの……お茶を……」


 人懐っこい瞳で見つめられ、頬の温度が上がる。

 それを自覚して、エルナは逃げるようにその場を離れた。

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