(7)
「まったく……世話のやける」
ゲラルトは肩で大きく息をし、さらに壁をずり落ちた。
「大丈夫ですか?」
エルナはゲラルトに駆け寄った。
大怪我を負っていたはずのフォルカーより、彼の方がよほど重傷に見える。
「いや、お恥ずかしい。さすがに一晩に二発も食らうと……ね」
ゲラルトは右手を軽く振ってエルナの手を拒んだ。
そして、箱を手繰り寄せると中から瓶を取り出し、中の液体を一口飲んだ。
酒と薬草の匂いがふわりとする。
おそらく気付け薬なのだろう。
「さあ、エルナ。貴女も荷物をまとめてください」
「えっ? わたし?」
「そもそも、貴女をここに連れてきたのは、危険から遠ざけるためだったのに、フォルカーのやつが台無しにしてしまった」
ゲラルトが何を言っているのか、よく理解できない。
おそらく、フリッツに関係することなのだろうが、いまひとつピンとこなかった。
「湖で、顔に傷がある異国風の男に襲われたでしょう?」
ゲラルトの片方の眉が、エルナを試すようにぴくりと上がる。
「どうして、それを?」
「フォルカーから聞きました。彼は普段、私に何も話さない……といいますか、問答無用で私を倒して消えるようなクソガキですが、その時のことだけは詳細に話してくれたのです。だから、私は貴女を城に召し上げるという名目で、ここに保護しました」
「保護?」
「そうです。湖で我が君と貴女を襲った男は、フォルカーの記憶では彼を襲った敵ですが、実際は、先代皇帝を殺害し我が君に重傷を負わせた男と考えて間違いありません」
そうだ。
あの時、あの不気味な男はこう言っていた。
『獲物は、まるまると太らせてから仕留めるに限る』と——。
耳の奥で再現された、掠れ気味の野太い声にぞわりとした。
今思えば、あの男は確かに、その時はフォルカーであった彼を皇帝と認識して、言葉を発していた。
昔から彼を知っているような口ぶりも、幼い彼を襲った証拠だろう。
あの恐ろしい男は、頃合いを見計らって、彼を殺害するために戻って来るつもりなのだ。
「貴女は、あの男の標的である皇帝陛下と一緒にいたのです。とても親密な様子で。だから、貴女は危険なのです」
「そういう……こと?」
エルナはゲラルトが危惧していることを、正確に理解した。
ゲラルトは皇帝陛下の側近。
彼の『貴女は危険』という言葉は、それが主の危機に繋がるという意味だ。
湖でエルナに向けられた、片目だけのぞっとする視線と歪んだ笑みを思い出す。
あの瞬間、エルナもまた標的として認識されたのだ。
もし自分が人質になるような事態が起これば、優しい彼は自分の立場を顧みることなく、敵の要求を飲むに違いない。
彼は、そういう人なのだ。
「わたしは、どうしたらいいんでしょうか?」
誓いを立てるように、胸元に隠した青い貴石を、ぎゅっと握りしめる。
自分がフリッツの役に立てるとは思えなかったが、少なくとも彼の弱点にはなりたくなかった。
「貴女には、身を隠していただかなければなりません。敵にフォルカーの足取りを探られて、貴女にたどり着いてしまうと困りますから」
「はい」
エルナは毅然と顎を上げた。
彼のためにできることがそれしかないのなら、何日でも何年でも息をひそめる覚悟だった。
「ありがとうございます。では、私は一足先に我が君の元に戻ります。マヌエラ、エルナを誰にも見つからないように連れ出してください」
そう言うと、ゲラルトは少々足元をふらつかせながら部屋を出ていった。
「えっと、荷物をまとめればいいのよね」
「手伝うかい?」
「いいわ。荷物なんて少ししかないもん」
ここに来た時も、鞄一つ分の荷物しかなかったのだ。
あれ以来、増えたものといえば、工房で使うお仕着せくらいだ。
エルナは枕の下を探って金貨を取り出した。
マヌエラに見られないように掌に隠し、鞄の底に忍ばせる。
その他の荷物も手早く鞄に詰めると、なぜか、鞄がぱんぱんになってしまった。
ふと自分の姿を見ると、深夜だというのに工房のお仕着せを身につけていた。
「着替えた方がいいかしら?」
「いや、その格好の方が都合がいいよ。万が一、誰かに見つかったときに、言い訳できるからね」
そう言うマヌエラも、いつの間に着替えたのか、エルナと同じものを身につけていた。
「急にいなくなったら、工房長が心配するよね」
父親と同じ工房で修行したことがある彼を、エルナはもう一人の父親のように感じ始めていた。
そんな彼に、林檎のパンを認めてもらうことができないまま、挨拶もせずに去ることが心苦しかった。
「あの丸っこいおっさんには、エルナが男と逃げたとでも言っておくから、心配ないよ」
「えぇっ! そんな言い訳やめてよ」
「そうかい? でも、みんなが納得する理由なんてないと思うよ。仕事が厳しいから逃げたなんて言ったって、あんたの場合は誰も信じないしね。恋人のために、何もかも捨てて逃げたってことなら、まるっきり嘘でもない」
「そんな……嘘……」
ではない?
確かに、工房での仕事や新しい林檎のパンの開発を投げ捨ててでも、身を隠そうと決心したのはフリッツのためだ。
彼のために自分ができることがあるのなら、何だってやりたいと思う。
けれども、フリッツを恋人だとするのは、たとえその場しのぎの嘘であったとしても恐れ多い。
以前から、自分とは釣り合うはずのない高貴な相手だと思っていたのに、まさかの皇帝陛下だったのだから、なおさらだ。
「準備が終わったんなら、もう行くよ。もたもたしてると夜が明けちまう」
「う……うん。でも、どこに逃げるの?」
その質問にマヌエラがにやりと笑う。
「とりあえずあんたの恋人の元へ。皇帝陛下の部屋、だね」
恋人の元?
皇帝陛下の部屋?
「えぇっ!」
「ほら、急ぐよ!」
何もかもがとんでもなかったが、マヌエラはじっくり驚く間を与えることなく、エルナの手から鞄を強引に奪い取る。
そして、音も立てずに扉を開け、するりと廊下に出て行った。




