(5)
エルナが慌ててベッドを降り、彼を助け起こそうとすると、ゲラルトが血相を変えて二人の間に割り込んだ。
そして、彼の身体を奪い取るように抱き寄せ、彼の頭を自分の胸に押し付け両腕で抱え込んだ。
「痛い。痛いよぉ……ゲラルト。助けて。うっ、うっ……」
くぐもった弱々しい声が聞こえてくる。
フリッツと同じ声に聞こえるが、幼子のように舌足らずで言葉がたどたどしい。
そんな彼に言い聞かせるように、ゲラルトが耳元で囁く。
「だめです。騒がないで」
「だってぇ、痛いんだよ。お腹が痛いの。肩も、背中もすっごく痛いの。僕、死んじゃうの? 助けて、ゲラルト。ふえぇぇ……ん」
「……フリッツ?」
それは、衝撃的な光景だった。
大人の男性であるフリッツが、同じく大人の男性であるゲラルトにしがみつきながら、幼い子どものように泣きじゃくっている。
その声は子どもというには低く、上下に震える肩は広い。
そんな彼を抱きしめ、髪や背中を撫でながら、ゲラルトが懸命になだめようとしていた。
「大丈夫、死んだりなんかしません。さっき、お薬をつけましたから、すぐ治りますよ」
「すぐって、いつなの? まだ、痛いよぉ。なんとかしてよぅ……」
『子どものよう』では、ない。
子どもなんだ。
きっと彼は、フリッツの中にあるという別の人格。
さっき、ゲラルトの話の中に出てきた、五歳の男の子だ。
「パウル……?」
そっと呼びかけると、彼の身体が大げさなほどに震えた。
「誰っ? 誰かいるの? ゲラルト、怖いよ」
彼は、それまで他の人がそばにいるなんて思っていなかったようだ。
見ていてかわいそうなくらい怯えながら、ゲラルトにいっそうしがみついた。
そんな、大人の姿をした子どもの髪をゲラルトがゆっくりと撫でる。
「大丈夫。ほら、落ち着いて」
「やだ、やだ。怖い」
「怖がらなくてもいいんだよ。彼女はエルナ。パウルの味方だよ」
「でもっ……、怖い」
ゲラルトの説明にも、パウルはいやいやと頭を振る。
それはそうだ。
明かりもないこんな暗い部屋の中に知らない人間がいたら、幼い子どもだったら怖いに決まっている。
しかも彼は怪我をしてるのだから、それだけでも不安だろう。
「びっくりさせてごめんね、パウル。かわいそうに。痛かった……ね」
頑なにこちらに向けている背中を、そっと撫でてやる。
「やだっ、怖い! ゲラルト、助けて」
「う……くっ、パウル。ち、ちょっと力を弱めて」
中身は子どもでも身体は大人だ。
そんな彼がぎゅうぎゅうに抱きついているのだから、ゲラルトは苦しそうだ。
「やだぁ〜!」
エルナは泣きじゃくる彼の肩を、ゆっくりとさすってやる。
きっと、皇子として育てられたフリッツは、こんなことは言えなかったのだ。
態度に出すことも、涙を流すこともできなかった。
「うん。そうだね。嫌だよね。嫌な時はそう言っていいし、痛いときは痛いって言っていいよ。怖いときも、淋しいときも、辛いときはいつも、そう言っていいんだよ。我慢なんか、しなくても……」
恐怖や不安や苦痛といったものをパウルに預けたのだろうと、ゲラルトは説明していた。
しかし、フリッツがパウルに預けたのは、思うままに弱みをさらけ出せる子どもらしさだったのではないだろうか。
きっと彼には、声をあげて泣く必要があったのだ。
「でもね、お姉ちゃんはパウルに悪いことはしないよ。信じてほしいな」
「ほん、と……に?」
頑なにエルナを拒否していた彼が、しゃくりあげながら尋ねてくる。
「うん。本当だよ。パウルはえらいね。よく頑張った……ね」
こんないたいけな身代わりを無意識のうちに生み出してしまうほど、フリッツの過去は壮絶だったのだ。
穏やかな笑顔に隠して、彼はこれまで、どれほど辛い思いに耐えてきたのだろう。
どれほど重い過去と現在と未来を、生きているのだろう。
「お姉さん、どうしたの? 泣いてるの?」
ふと、頬に何かが触れた。
顔を上げると、パウルがおずおずと手を伸ばしていた。
まつげに細かな水滴を残した心配そうなエメラルドグリーンの瞳が、まっすぐにこちらを向いている。
今も、傷が痛むはずなのに、他人の涙を気にするとは、なんて優しい子だろうか。
彼に、何かしてあげたい。
あどけない表情に庇護欲が掻き立てられ、頬を撫でる優しい手に自分の手を重ね、頬にぎゅっと押しつけた。
「あのね、今ね、お姉さん、パウルの痛い痛いを半分もらったの。だから、痛くてちょっと泣いちゃった」
「僕の……痛い痛いを?」
「そう。だから、パウルはもうあまり痛くないでしょ?」
きょとんとなったパウルにそう言うと、彼はもう一方の手で左の脇腹を探った。
そして、驚いたように目を丸くした。
「ほんとだ、あんまり痛くない。でも、お姉さんは、僕のせいで痛くなっちゃったんでしょ? ごめんね、ごめんね。大丈夫?」
「いいの。パウルと痛いのを半分こしたかったの。だから、平気よ。パウルはいい子ね」
彼の頭をくしゃくしゃと撫でてみたが、はにかんだ笑顔を見せる彼にはもう、怯えた様子は見られない。
だから、小さく手を広げて言ってみた。
「おいで」
すると彼は、少し困った顔をして、お伺いをたてるようにゲラルトの顔を見た。
ゲラルトが小さく頷くと、彼は恥ずかしそうにしながらも、エルナの腕に飛び込んできた。
「わっ!」
背後にベッドがなかったら、後ろに勢いよく倒れてしまうところだった。
したたかに打ち付けた背中に激痛が走ったが、なんとかこらえてパウルを抱きとめた。
首に回された両腕が強く締められ、一瞬息が詰まった。
小さな健気な男の子にしか見えなかったから、つい抱きしめてあげたくなったのだが、こんな事態になるなんて思わなかった。
彼は子どもにしては大きすぎて、重すぎた。
「お姉ちゃん、いい匂いがするね。なんだか、お腹がすく匂いだよ」
パウルの方はそんなことを思いもしない。
無邪気に全力で抱きついてくるから、エルナは息をすることすら難しい。
「そ、そ……う? 林檎の……パンの匂いだよ」
「えっ? パンに林檎が入ってるの? すごいね。おいしそうだね」
「お姉ちゃん、パン職人だから、こ、今度、パウルにも作ってあげる……ね」
「ほんと? 約束だ……よ?」
嬉しそうにそう言った後、彼の両腕からするりと力が抜けた。
代わりに、全身にずしりと更なる重みがかかった。
「パウル……?」
やっとの事で息を吐きながら、少しずり落ちた彼の様子を伺うと、大きくて小さなパウルが口元に笑みを浮かべて穏やかな寝息を立てていた。
ゲラルトが笑いを含んだ声で言う。
「なかなかに、自殺行為ですよ。彼は中身は無邪気な子どもでも、身体は大人なんですから。しかも、無駄に鍛えていますし。私もさっき、死ぬかと思いました」
「だったら、止めてください」
そう言ってゲラルト睨みつけはしたが、どれほど重くて苦しくても辛くはなかった。
静かに目を閉じた彼の顔には、さっきまでの幼さは感じられなかった。
もう、フリッツにしか見えなかった。
「フリッツ」
彼の耳元でそっと、名を呼んでみた。
彼の背中に回した腕に少し力を込めて、彼の存在を実感する。
「パウルが出てきたのは数年ぶりです。おそらく、怪我の痛みに反応したのでしょう。それにしても、貴女の対応は素晴らしかった。私はあの子があれほど優しい子だということに、初めて気づきました。やはり我が君と共通するものがあるのでしょうね」
ゲラルトがしみじみとつぶやいていると、女の声が割り込んできた。
「もう、落ち着いたかい?」
突然のことに、エルナはひっと息を飲んだ。




