表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/54

(4)

 彼はその日、皇帝である父親と一緒に、お忍びで鹿狩りに出かけた。

 お忍びといっても、公式行事でないというだけで、側近や騎士ら数名が同行し、森の外れには休憩のための簡易な天幕も設営された。

 早朝に出かけた彼らは、昼には昼食を摂るため、一旦、天幕に戻ることになっていた。

 フリードリヒの家庭教師だったゲラルトは、この時、他の使用人らと共に、天幕で主の戻りを待っていた。

 しかし、昼をとうに過ぎても誰ひとり戻ってこなかった。

 不審に思った天幕に残っていた者たちが、森の中を捜索したところ、頭から血を流し息絶えていた皇帝を発見する。

 そして皇子は、乗っていた馬もろとも崖下に転落し、瀕死の重傷を負っていた。


 自分が仕えてきた幼い主のあまりにも痛ましい姿を思い出し、ゲラルトがここで黙り込んだ。


「あの……、先代の皇帝陛下は、落馬事故だったんですよね?」


 エルナはそう聞いていたし、この国の人々も皆、先代皇帝の死を不幸な事故だったと信じている。

 けれど、ゲラルトの説明の端々に、不穏な影が潜んでいるように思える。


「真相は分かりません。陛下の死には不審な点が多かったですし、そのとき護衛についていた騎士二人が行方不明になりました。幼いフリードリヒ様は、何が起きたのかを目の当たりにしたはずですが、何一つ憶えていらっしゃらなかった。ですから、落馬事故として発表するしかなかったのです。その方が、国民も不安に思わないですみますし」


 つまり、ただの事故ではなかったのだ。

 ゲラルトははっきりとは言わなかったが、暗殺という言葉がエルナの頭に浮かび、背筋が冷えた。


 重傷を負ったフリードリヒは、なんとか一命をとりとめたものの、一年以上も、まともにベッドから起き上がることができなかった。

 当時九歳だった彼は、その血筋のためか年齢よりも大人びた聡明な少年だった。

 全身に負った怪我の苦痛は相当なものだったろうに、彼は辛抱強く耐え、不安を口にすることもなく、医者の言うことにも素直に従っていた。

 しかし時々、まるで幼子のように声を上げて泣きじゃくり、だだをこね、ゲラルトに甘えることがあった。

 また、ぞくりとするような反抗的な目つきを見せ、皇子とは思えない粗野な言動で周囲にあたりちらすこともあった。

 人が変わったように不安定な様子を見せる彼に、父親を亡くし、自身も大怪我を負った不幸な身だから仕方がないと、周囲の誰もが同情を寄せていた。


 しかし、ゲラルトはそう思わなかった。


「私の目には、全く性格の違う複数人の彼がいるように見えました。彼の侍医も同じことを言っていました。そして、彼以外の背景と名前を持つ、別の人格が存在することに気づいたのです。いつも不安げで泣いてばかりいる彼は五歳のパウル。荒々しい方は十五歳のフォルカー。他にも様々な人格が次々と現れました」


 侍医の見立てでは、フリードリヒが目撃したであろう衝撃的な事件と、生死をさまようほどの怪我を負った身体的な苦痛は、九歳の少年一人が背負うには重過ぎたのだろうとのことだった。

 だから、恐怖や不安や苦痛といったものをパウルという人格に、自分をこんな目に遭わせた者への、憎しみや復讐心をフォルカーに預けた。

 そうでもしなければ、おそらく彼の精神は壊れてしまうだろう——と。


「パウルは幼過ぎて泣いてばかりなので、どういった素性なのか分かりません。あまりにも痛々しくて、追求するのも憚れますしね。フォルカーの方は、もともとは孤児で、ならず者の集団の中で暗殺者として育てられたそうです。崖から落ちた日のことは、何者かに襲われたと記憶しているのですが、相手が誰かは分からないと」


 フォルカーの記憶では、仕事の標的を追って馬で森に入ったところ、一本の矢が馬をかすめたのだという。

 恐慌状態に陥った馬を制御できずにいる中、黒づくめの男に襲われ、馬もろとも崖から転落した。

 そして、気がついたときには、大怪我を負い身動きができない状態で、見知らぬベッドの上に寝ていたのだという。


「彼の話は恐らく、形を変えた真実なのでしょう。実際、我が君の馬には矢傷が残っていましたから」


 フォルカーは自分を襲った男への復讐を誓い、怪我で麻痺が残る身体を元に戻すために、必死に訓練に励んだ。

 おかげで、完治は難しいと思われていたフリードリヒの身体は、機能的には完全に回復した。

「そういう点では、彼に感謝している」とゲラルトは苦い笑みを浮かべた。


 フレデリクと名乗る三十三歳の男の人格が現れたのは、今から四、五年前。

 彼は、隣国ダイエル王国の貧乏伯爵家の次男だという。

 非常に野心家で頭の切れる彼は、自分がブラウヒューゲル皇帝の身体にいることを面白がり、皇帝として徐々に政務に乗り出すようになった。


 侍医の話では、カルヴィーン卿に実権を握られ、お飾りの皇帝に甘んじているフリードリヒの焦りや屈辱感が、フレデリクという人格を生み出したのではないかということだった。


「ちょっと待ってください。どうして、フォルカーやフレデリクさんにそんな過去の記憶があるんですか? だって、フリッツが作った別の人格なのでしょう?」


 ゲラルトの話ぶりでは、別々の三人の人間がいるように感じる。

 エルナから見ても、フリッツとフォルカー、フレデリクは、全くの別人だ。

 しかし、フリッツの中に生まれた別の人格だとしたら、その元になっているのはフリッツ自身のはず。

 同じ過去を共有していないと、おかしいのではないだろうか。

 それぞれに違った生い立ちがあることを疑問に思う。


「それは、私にも分からないのです。どういうわけか、彼らには完璧な過去の記憶があります。しかし、フォルカーが自分の記憶を実際にたどってみたのですが、彼の知り合いや暮らしていた町は存在しませんでした。ダイエル王国にはフレデリクの生家だという伯爵家は存在しましたが、その家にはフレデリクという息子は元々いなかったのです」


「じゃあ、フリッツの想像とか、作り話なんでしょうか」


「いいえ、そうとも言い切れません。例えば、フリードリヒ様には正統派の剣術の心得はあるのですが、フォルカーの動きはそれとは全く違う。皇子が暗殺術など、一体どこで学んだというのでしょう。そして、フレデリクの話すダイエル語には、特徴的な訛りがあります。フリードリヒ様もダイエル語は習得されていますが、訛りはないのです。つまり彼らには、彼らの過去の経験に即した固有の特徴があるのです」


「そんなことが……」


「私だって、今だに信じられませんよ。けれど、彼らを知れば知るほど、生まれも育ちも違う、全く別の人間だと思い知らされるのです。ただ、共通点もあります。フォルカーが怪我を負った経緯は現実と重なりますし、フレデリクはフリードリヒという名のダイエル語読みですし」


 そのとき、こつりと、エルナの膝に何かが触れた。

 ベッドに背中を預けていたフリッツが、バランスを崩して倒れかかっていた。


「いけない」


 慌てて手を伸ばしたが、彼はエルナの手をすりぬけて、足元に崩れ落ちる。


「大丈夫? フリッツ!」

「…………た……い」


 今の衝撃で意識を取り戻したのだろう。

 彼は床の上で背中を丸め、微かに呻いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ